黄巣
唐末の塩の密売人。唐の塩密売取り締まりに反発して875年に王仙芝と共に反乱を起こした。884年、乱は鎮圧されたがこの黄巣の乱を契機に唐は滅亡へと向かった。
唐帝国は安史の乱の最中に、軍事費の財政支出をまかなうため、塩専売制を打ち出し、それを実施していった。専売制はその一方で密売も横行したので、密売人たちも利益を上げていたが、官憲が取り締まりを強化するようになると、抵抗して武装するようになった。その中から、たくさんの任侠を集め秘密結社をつくる者も現れた。黄巣は山東省の人で、そのような塩密売人の一人だった。
唐朝政府は反乱指導者に官職を与えることで懐柔しようとし、王仙芝はそれに応じようとしたが黄巣は強く反対した。間食欲にとりつかれた王仙芝とは決別して反乱軍を指揮することとなった。王仙芝はその後、878年にが唐朝軍の謀略によって殺害されてしまった。黄巣は反乱軍を率いて豊かな江南へ南下し、福建から広州に進出した。このとき黄巣軍はイスラーム商人やユダヤ人商人を多数殺害したと記録されている。数十万に増大した反乱軍を率いた黄巣は「天補平均大将軍」(天から任命されて、世の中の貧富を無くし、平均を図る大将軍、の意味)と称し、879年には「打倒唐朝」の世直しを掲げて北上を開始した。
皇帝となる 880年11月、洛陽を陥れ、長安に迫ると、皇帝僖宗は四川に逃れ、黄巣軍は無血入城した。12月13日、黄巣はみずから皇帝を称し、国号を大斉、年号を金統と改めた。長安の市民は黄巣軍を歓迎したが、黄巣軍は略奪を開始し、民心は次第に離れていった。
朱温の離反 唐軍が突厥軍などを動員して反撃し、長安を囲むと、食糧の補給が途絶え、黄巣軍からも唐側に寝返る者がでたため、黄巣は883年、わずか2年ばかりで長安を放棄し、逃亡を図った。884年、部将であった朱温(後の朱全忠)が離反、黄巣は故郷の山東に向かう途中、泰山の麓の狼虎谷で甥の林言に首を打たせて死んだ。
黄巣の乱
875年、山東省の塩密売人の仲間、王仙芝が反乱を起こしたのに呼応して蜂起した。その頃、天候不順の中、重税に喘いでいた農民も加わって、唐末の大反乱「黄巣の乱」となった。唐朝政府は反乱指導者に官職を与えることで懐柔しようとし、王仙芝はそれに応じようとしたが黄巣は強く反対した。間食欲にとりつかれた王仙芝とは決別して反乱軍を指揮することとなった。王仙芝はその後、878年にが唐朝軍の謀略によって殺害されてしまった。黄巣は反乱軍を率いて豊かな江南へ南下し、福建から広州に進出した。このとき黄巣軍はイスラーム商人やユダヤ人商人を多数殺害したと記録されている。数十万に増大した反乱軍を率いた黄巣は「天補平均大将軍」(天から任命されて、世の中の貧富を無くし、平均を図る大将軍、の意味)と称し、879年には「打倒唐朝」の世直しを掲げて北上を開始した。
皇帝となる 880年11月、洛陽を陥れ、長安に迫ると、皇帝僖宗は四川に逃れ、黄巣軍は無血入城した。12月13日、黄巣はみずから皇帝を称し、国号を大斉、年号を金統と改めた。長安の市民は黄巣軍を歓迎したが、黄巣軍は略奪を開始し、民心は次第に離れていった。
朱温の離反 唐軍が突厥軍などを動員して反撃し、長安を囲むと、食糧の補給が途絶え、黄巣軍からも唐側に寝返る者がでたため、黄巣は883年、わずか2年ばかりで長安を放棄し、逃亡を図った。884年、部将であった朱温(後の朱全忠)が離反、黄巣は故郷の山東に向かう途中、泰山の麓の狼虎谷で甥の林言に首を打たせて死んだ。
Episode 科挙の落第生
黄巣は山西省の富裕な家に生まれたが、科挙に落第し、官吏になる道をあきらめ、塩の密売人になった。後に反乱の首謀者となったのは、そのときの恨みがあったのだろうか。また、黄巣を裏切った朱全忠の部下で、その参謀であった李振と言う人も科挙落第生だった。彼は特に科挙合格者である朝廷の上級官僚を憎む気持ちが強かったらしく、朱全忠が唐を滅ぼした際、上級官僚30名を殺して黄河に投げ込み、自らは大臣となって権勢を振るった。しかし李振は後梁が滅ぼされたとき一族とともに殺されてしまった。