司馬光
宋の政治家、儒家、1070年からの王安石の新法に強く反対して旧法党の中心人物とされた。1086年に宰相となり、新法をすべて否定し元に戻した。歴史書『資治通鑑』の著者としても重要。
司馬光 1019~1086
中国の歴史教科書より
王安石の新法に反対
そのころ宋朝は深刻な財政危機にあったので、神宗は役人たちに其の対策を論じさせた。王安石は青苗法などの斬新な改革を主張したが、司馬光は青苗法は政府が営利的な事業に手を出して人民と利益を争うこととなり、かえって人民の生活を圧迫するものとして反対した。このような司馬光は祖法の固守の立場にたったので、旧法党といわれ、王安石の新法党と激しく論争を行った。しかし、神宗は王安石の改革を採用することとし、1070年には王安石が宰相となり、王安石の改革が次々と実行された。親友とたもとを分かった司馬光は、みずから退陣を願い出て、地方に転出、1071年から洛陽に居を移し、神宗から与えられた『資治通鑑』の編纂に没頭した。
政権復帰と直後の死
王安石の改革は次々と実施されたが、同時に地主・豪商らの反対運動も激しくなっていった。1084年、司馬光が『資治通鑑』を完成させて神宗に奉呈したが、神宗はその4ヶ月後に死去してしまった。しかし、神宗の死は王安石の新法党の没落をもたらし、新帝を補佐する宣仁太后によって1086年2月、司馬光を宰相に任命、中央政界に復帰することとなった。司馬光は宰相として次々と王安石の新法を廃止する中、失意の王安石は4月に亡くなった。司馬光自身もすでに68歳、命もつきようとしていた。宰相となってわずか8ヶ月後に、司馬光は死んだ。<司馬光/田中謙二訳『資治通鑑』ちくま学芸文庫 解説 p.587-589>『資治通鑑』を著す
司馬光は、王安石に反対して自ら中央の官職から退き、地方の閑職についてその間、歴史書の編纂に没頭した。その結果、1084年に完成させたのが、編年体の歴史書の名著である『資治通鑑』である。それは紀伝体で書かれた司馬遷の『史記』に対抗する意図をもって、編年体で書いた。全編を貫く思想は中国古来の価値観である儒教の理念にたち、大義名分論を明らかにし、また中華思想にもとづいて華夷の別を強調するものであるが、観念的ではなく、史実に基づいて論を立てていくという歴史家の姿勢を貫いた。