王安石の改革/新法
宋代の1070年に始まる王安石の指導した改革。新法とも言う。宋王朝の財政再建と富国強兵を目指し、神宗によって採用されて実施されたが、保守派の反対が強く、神宗死後に廃止された。
宋(北宋)の神宗の時、1070年に始まる宰相王安石による改革。宋では文治主義を取ったために生じた官吏への俸給の増加、遼と西夏との和平のための贈物のための出費、傭兵を維持するための費用などがかさみ、慢性的な財政難に悩まされていた。神宗に登用された王安石は大胆な富国強兵策をたて、その財政難と兵力の弱体化と解決し、宋の再建を目指した。また王安石は、有能な官吏を育成し、選抜するために、官吏養成のための学校を整備し、科挙の改革も行った。また、方田均税法によって税制の不均衡を是正しようとした。
王安石の改革によって一時的に宋の財政は回復し、西夏に対する遠征が行われたが、財政難の解消には至らず、保守派の反対も強まったため、1076年には王安石は宰相を辞任し、改革は失敗した。
1.農民の救済を目指す法 農民の生産力を高めるとともに政府の財源確保をねらった。
改革の狙いと結果
王安石の改革である「新法」の狙いは財政難の解消と富国強兵であった。財政難の解消としては、青苗法・均輸法・市易法・募役法があり、強兵策としては保甲法・保馬法がある。王安石の改革を支持する一派を新法党と言ったが、その改革に反対する旧法党との対立が激しくなった。旧法党の中心人物には司馬光がいた。また、文人としても名高い蘇軾(蘇東坡)と蘇轍の兄弟なども王安石の新法には反対した。王安石の改革によって一時的に宋の財政は回復し、西夏に対する遠征が行われたが、財政難の解消には至らず、保守派の反対も強まったため、1076年には王安石は宰相を辞任し、改革は失敗した。
新法と新法党
王安石の改革を総称して「新法」といい、それを支持する一派を新法党と言った。その「王安石の新法」の主要な内容は財政難の解消と富国強兵のためのものであるが、次の三つのグループに分けることができる。1.農民の救済を目指す法 農民の生産力を高めるとともに政府の財源確保をねらった。
- 青苗法 春の植え付け時期に政府が資金を農民に低利で貸し付ける。秋の収穫期に穀物で払う利息は、民間では10割もの高率であったものを青苗法で2割と規定した。いわば官営の低利融資制度であったが、従来の貸付で利益を得ていた大地主や大商人は強く反対した。旧法党の司馬光は、青苗法は政府が営利的な金融事業を行うことであり、民業と利を争い、かえって民間の事業を圧迫するものとして反対した。
- 募役法 農民に対する労役を免除する代わりに免役銭を納めさせ、それをもとに労役(差役)に従事するものを募集するもの。労役(差役)とは戸の等級ごとに徴税、税の輸送、警備など各種の役を負担させていたことで、農民にとって農作業以外の義務となっていた。それが免役銭を納めれば免除され、免役銭によってそれらの業務をする人を雇用されるので歓迎された。また、それまで免役の特権を持っていた官戸や寺院・観(道教の道場)からも助役銭を徴収した。王安石は募役法(免役の法ともいう)によって「則ち農時奪われずして民力均し」くなると説明している。
- 均輸法 農民の生産する物資を都に運ぶ際、輸送費・中間費用がかさんで値が上がることを防ぐため、その地で価の安いときに買い入れ、値の高いときに売ること。物価の安定と流通を図ったものだが、旧来からの大商人は転売の中間利益を得られなくなるので反対した。 → 漢の武帝の均輸法(漢)
- 市易法 政府が中小商人に資金を貸し付け、物資を購入させ、値が上がったときに売り出させて利益を還元させる方式。市易法を実施するため市易務を設置し、小商人に低利の貸付を行うとともに、問屋の役割を担当し商品流通の統制もはかった。市易法は中小商人の保護と物価の安定をねらったものであったので、それまで物資を独占して価格を操り、市場を支配していた大商人は、利益を上げることを抑えられるので強く反発した。
- 保甲法 宋の軍事力は
傭兵 に依存したため、その出費が多かった。王安石は傭兵をやめ、民兵による軍事力の編成を試みた。10家を1保、50家を大保、500家を都保とし、保に保長、大保に大保長、都保に都正・副都正を置き、各家から成年男子を保丁として出させて、共同責任による治安維持にあたらせ、農閑期には軍事教練を行った。郷村を組織化して自衛・警察業務に当たらせたもの。 - 保馬法 保丁に対し、政府が馬を貸し与え、戦時には軍馬として、平時には農耕馬として飼育させ、軍馬の不足を補おうとした策。