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トゥルファン/高昌

天山山脈東南のオアシス都市。吐魯番。シルクロードの要衝のひとつで、漢人の入植が続き、高昌国ができる。640年に唐に服属した。

 トゥルファン(トルファン)は、漢字表示では吐魯番で、現在は中国の新疆ウイグル自治区の一都市。ウルムチ(烏魯木斉)の東にあり、オアシスを中心とした緑豊かな盆地が広がっている。歴史上は西域の主要なオアシス都市のひとつであり、シルクロードの天山南路の北道に位置する、重要な中継地であった。
 初めはイラン系遊牧民と思われる車師(しゃし)前国(車師後国はその北を支配)があったが、北東から匈奴の侵攻を受け服属した。前2世紀、漢の武帝によって匈奴が逐われた後に漢民族の入植が進み、シルクロードの要衝のひとつとなった。
 トゥルファン盆地には、450年に高昌国が成立し、その後約200年間に何代かの漢人の王が交代した。高昌国のもとで漢文化と西方の文化が融合し、仏教をもとにした高度な文化生まれ、西魏まで続いた。このころは漢人や北方遊牧民だけでなく、西方からのソグド商人による交易も盛んに行われた。640年、高昌国は唐によって滅ぼされて西州とされ安西都護府を置いて、西域統治の拠点のひとつとした。しかし、790年には吐蕃が河西回廊に進出して占領された。9世紀には西ウイグル王国がこの地を支配し、13世紀まで続いた。
 モンゴル帝国の支配下に入ると、15世紀からはイスラーム化が始まった。清の乾隆帝の時にその征服を受けて新疆に組み込まれ、吐魯番庁がおかれ、その後中国領として続いている。

高昌国

 439年北魏太武帝によって五胡十六国の北涼(敦煌など甘粛を支配していた)などが滅ぼされ、華北が統一された。この匈奴系の北涼が滅んだとき、その王族の一人沮渠無諱(しょきょむき)が西に逃れ、トゥルファン盆地に入り、450年に王を称した。これが高昌国の始まりであり、その後、闞(かん)氏、張氏、馬氏、麹(きく)氏と支配者は交替したが、640年まで存続した。
 豊かなオアシス都市であったので、絶えず周辺の騎馬遊牧民の脅威にさらされており、柔然高車鉄勒突厥の侵攻が続いた。また、北魏の影響力も強く、それは西魏まで続いた。このころは漢人や北方遊牧民だけでなく、西方からのソグド商人の活動が盛んだった。
 501年ごろ高昌国王となった漢人の麹氏は北魏の冊封を受けて国家体制を整備した。7世紀に入り、隋に続いてが中国の統一支配を始めると、その支配が西域、中央アジアにも及んできた。629年に長安を出発した玄奘は玉門関から苦心の末ゴビ砂漠を越え、トゥルファンに入り、高昌国王麹文泰から手厚い保護を受け、西突厥に向かっている。しかし、その後、唐の太宗は西域制圧に乗り出し、麹文泰は突厥と結んで抵抗したが敗れて長安に送られ、高昌国は滅亡した。唐はトルファンを西州として直接支配し、安西都護府を置き、その西域支配の拠点のひとつとした。

トルファン文書の発見

 トルファンの高昌国時代の都あとである高昌故城や、唐支配時代に至るアスターナ・カラホージャ古墓群から、1912年に日本の大谷探検隊(浄土真宗西本願寺門主大谷光瑞が仏教伝来ルートの探索のために派遣した)が大量の文書群を発見、日本に持ち帰った。これは同じ時期にイギリス人スタインやフランス人ペリオが発見し、持ち帰った敦煌の大量の文書とともに、西域で発見された文書として研究されることとなり、主として唐代の中国と西域の社会、文化が明らかになった。特に唐の均田制・戸籍制度などの実態の解明に大きな手掛かりを与えた。<以下、關尾史郎『西域文書から見た中国史』世界史リブレット10 山川出版社 1998 p.30-68 による>
  • トルファン出土の紙 漢人の墳墓から大量のが出土した。乾燥しさ半砂漠地帯であるためよく保存されているが、大部分は死者が身にまとう鞋(あい、履物)、帽子、紙幣などの裏打ちに二次使用されたもので、中には棺が紙で作られている例もある。従ってほとんどの資料は一部しか残されていない断簡である。<p.23>
  • 多彩な税目 文書のなかで最も多い文書が納税証明書で、納税者が用紙を持参し、納税の証拠として役人が作成したらしい。また納税の内容は、律令に定められた租・庸・調の基本的な税の他、地税や戸税その他の様々な負担が課せられていたことがわかった。<p.47>
  • 均田制は実施されていたか 北魏・北周・隋・唐と継承された均田制律令の田令に規定されていたが、それが実際にどのように運用されたかについて当時の史料に記載はない。ところがこのトルファンで出土した西域文書に、大量の給田関係の帳簿(田簿)が含まれていたことから、その実施状況が判明した。それによると、郷ごとに里正(役人)が退田簿、欠田簿、給田簿を作成しており、田土の還受が行われていたことは疑いがない。ところがトゥルファンで還受されていたのは口分田ではなく永業田であった。口分田はここでは存在していない。トゥルファンでは永業田は桑や粟ではなく穀物を栽培しているので、実質的に口分田の還受と同じことが行われていた。これはトルファン、あるいは西域の田地が不足しているという地域性かも知れない。もう一つの均田制の原則である土地売買禁止は厳密に守られていたようで、土地売買関係の文書は見つかっていない。<p.56-67>
(引用)このように、トゥルファンについては、均田制が実施され、田土の還受がおこなわれていたこと、田土の売買も禁止されていたことなどが明らかになった。また敦煌においても、形骸化しながらも、8世紀なかごろの時期に、なお退田簿や戸別受田簿などが作成されていたことが明らかにされた(やはり敦煌からも、この時期の田土売買の契約文書はみつかっていない)。したがって均田制は、田令に定められた原則とはだいぶ異なっていても、一定の面積の田土を還受する土地制度として、西北の辺境地帯で、8世紀まで実施されていたことはもはや疑いのない事実となったのである。<關尾史郎『西域文書から見た中国史』世界史リブレット10 山川出版社 1998 p.67>
 均田制が間違いなく(規定どおりでないにしても)西域という辺境で行われていたことは事実と言えよう。では中心地帯ではどうだったのだろうか。史書によれば隋代から中央地帯でも田土の不足が深刻になっていたことが分かっているので、実施の維持はより困難であったであろうが、中央で廃止に追いこまれたような制度を、辺境地帯で施行するとは考えられない。むしろ、唐があえて律令制支配を画一的に実施しようという志向とともに、辺境のような田地の不足する地域では規定にこだわらないという柔軟性を併せ持っていたことに、唐王朝の律令制支配の特質を見るべきであろう。<關尾『同上書』p.67-69>