カシュガル/疏勒
東トルキスタンのタリム盆地の西端に位置するオアシス都市。中国では疏勒という。シルクロードの要衝にあたり、唐は都護府を置いた。トルコ系ウィグル人の都市となり、10世紀にはイスラーム化した。現在は新疆ウィグル自治区に属し中国の最西端の町である。
カシュガル GoogleMap
9世紀頃からトルコ系のウイグルが東トルキスタンに定住して西ウイグル王国をつくり、カシュガルもその統治下に入る。10世紀頃にイスラーム化が始まった。現在は新疆ウイグル自治区の一都市。住民の90%はウィグル人のイスラーム教徒である。
→ 敦煌・トゥルファン/高昌国・クチャ/亀茲・ホータン/于闐
シルクロードの要衝
かつてはシルクロードの天山南路にあって最も栄えた都市の一つであった。唐の時代には都護府が置かれ、安西四鎮の一つといわれた。11世紀に成立したトルコ系のカラ=ハン朝時代に、この地に生まれたカシュガリーは、セルジューク朝などのトルコ系諸国を遍歴し、1077年に世界最初のアラビア語で書かれた『トルコ語辞典』を完成させた。Episode 香妃墓の物語
カシュガルのウィルグル人ムスリムの中に、16世紀後半、イスラーム教白帽派を興したアファク・ホージャが現れ、ホージャ一族が実力者として君臨するようになった。その墓地には一族五代72人が眠っている。その墓の一つにアファク・ホージャの孫の香妃墓には「美女の死をめぐる謎」がある。時は清の乾隆帝の時で、帝は西域で一人の美女とであう夢を見た。ナツメのような香しいかおりがしたので香妃と呼んだこの美女を探し出すとホージャの一族の娘だとわかり、さっそく都に呼び寄せ口説いた。しかし香妃はカシュガルを懐かしむばかりで帝の求めに応じようとしない。業を煮やした乾隆帝の母の皇太后が「おまえの望みは何?」と問うと、香妃は「カシュガルに帰れないなら、せめて死ぬことです」と答えた。「ならばおまえに死を賜わそう」と皇太后は冷たく言い放ち、香妃は死に追いやられたが、そのからだからは変わらずナツメの芳香が漂っていたという。この遺体が124人の従者と共にカシュガルに戻り、ホージャ一族の墓に葬られた、とされているのだが、これまでの話は伝説で、史実は香妃は乾隆帝の寵愛を得て妃となり、皇太后にいじめら事も無く55歳の生涯を追え、その亡骸は河北省の清朝の陵園に葬られている。もっともこちらの話にも確たる物証は無く、今も香妃の死をめぐる謎は完全には解き明かされていない。<長澤和俊監修/吉村貴著『シルクロード歴史地図の歩き方』2001 青春出版社 p.84-87>カシュガルの大モスク
カシュガルはイスラーム色の強い町であるがそれを象徴するのが市街地の中央にある「エイティガール寺院」である。建立されたのは1422年、その後改修、拡張が続けられ、現在は東西120m、南北140mの大モスクの新疆で最大のモスクとなっている。高さ18mの左右のミナレットにはさまれた正門は12m、内部には礼拝堂や庭園があり、祭日には何万人もの人が集まる。礼拝所の天井にはアラベスク模様が施され、床には敷物が敷き詰められている。モスクの周辺はカシュガルでももっともに賑やかな職人、商人があつまる町になっている。なおカシュガルには仏教遺跡も残されており、北東30kmほどのところには「モール仏塔」といわれる、中国では最も西にある仏教遺跡となっている。<吉村貴著『前掲書』p.87-89>