クチャ/亀茲
東トルキスタンのタリム盆地にあるオアシス都市。漢は西域都護府を置いた。西方から仏教が伝わり、4世紀の仏図澄もこの地の出身地だった。7世紀に唐が進出、安西都護府を置いた。9世紀にはウィグル人が入り、仏教石窟が造られた。近郊にキジル千仏洞がある。
クチャ(庫車) GoogleMap
後漢の西域都護と唐の安西都護
紀元前2世紀頃、オアシス都市国家亀茲国が興り、シルクロード最大の仏教王国が栄えた。前漢は西域への進出を開始し、始め烏塁城に西域都護府を置いたが、漢末から王莽の時代には一時期、廃止されて、後漢が91年に復活し、班超を西域都護に任命し、亀茲に駐屯させた。一時期、突厥に支配されたが、唐はこの地の支配を回復し、安西都護府を置いた。いずれも西域支配の最前線基地としてこの地を重要視した。仏教の隆盛
この地はパミール高原を境として中央アジア地域とつながり、東西交流の要地として最も重用な都市の一つだった。そのため西方のゾロアスター教やマニ教がこの地を経て中国に伝えられたが、最も重要なことは仏教が伝えられたことで、それは紀元前後の事と思われる。仏教はまずこの地に根を下ろし、4世紀に中国で仏教布教にあたったことで知られる仏図澄はクチャの出身者であった。また鳩摩羅什は父はインド人で、母は亀茲王の妹という。クチャの仏教の繁栄を示す遺跡として、キジル千仏洞という石窟寺院が残されている。鳩摩羅什の故国 高昌国(トゥルファン)の国王の歓待を受けた玄奘は、託された国書をたずさえて西に向かい、かつての焉耆(えんぎ)国の故地阿耆尼を経て、亀茲国に入った。その『大唐西域記』をもとに、玄奘の思いは次のように想像される。
(引用)玄奘は王城を望み見るところまでやってくると、胸に強くこみあげてくるものを感じないではいられなかった。自分が早くから読み習い、慣れ親しみ、懸命に学んだ経典の多くを、原典から素晴らしい言語で漢文に移し変えた大いなる師鳩摩羅什の祖地がここ亀茲であったからである。大地を踏む足に思わず力がこもる。<前田耕作『玄奘三蔵、シルクロードを行く』2010 岩波新書 p.39-40>玄奘は亀茲国王の蘇伐畳(スヴァルテ、クチャ人)と高僧木叉毬多(モークシャグプタ)の出迎えを受け、法会を行ったあと、周辺の寺々をまわった。翌日、正式な謁見をしたが、玄奘の観察眼は国王は「知略にとぼしく、強力な家臣に抑えられている」と手厳しい。亀茲国に仏教が栄えたのは3世紀頃からであり、王侯貴族に受け入れられ大きな勢力となった。そしてここから中国に赴き、経典の翻訳に従事して仏教の普及に努めた人も多かった。鳩摩羅什もその一人であったが、彼のように東西いずれの言語にも通ずる人々を輩出したのは、亀茲の言語がトカラ語で、彼らが経典の原文(梵文=サンスクリット)で読むことができたという、異言語を包摂できる地理的・文化的環境を有していたからであろう。玄奘はこの地に60日以上留まり、この梵文原典の探索に宛てたのであろう。<前田耕作『前掲書』p.41>
キジル千仏洞
キジル千仏洞はクチャの西、75kmほどにあり、渭千河の北岸の40kmの断崖におよそ2kmにわたって現在確認されているだけでも237窟の石窟がある。石窟が造られ始めたのは3世紀とされており、それは敦煌の莫高窟よりも古い。7世紀にこの地を訪ねた玄奘の『大唐西域記』には伽藍が100余カ所、僧徒5000人がいたと記されている。切り取られた壁画 キジル千仏洞は交通手段が悪く、飛行機、車を使っても日本からは最低三日はかかる。そこには多くの石窟があるが、その多くの壁画は無残にも剥ぎ取られている。20世紀の初め、ドイツのグリュンヴェーデルやル・コック、日本の大谷探検隊などが、塑像や壁画を持ち去るために、切り取った痕跡だ。切り取られた後だけで無く、彼らの残した落書きもある。彼らは秘境に分け入った探検隊としてその成果を持ち去ったのだったが、いま見るとされは蛮行の跡としか見えない。石窟の一つに、ドイツ隊が音楽堂と名付けたある。その石窟には両側の壁から天井にかけて、八つの楽器を持った伎楽天が描かれ、琵琶、横笛、篳篥(ひちりき)、手鼓、琴のもとにになった弦楽器、シンバルのような楽器などを奏でる図が描かれている。ここはさすがにドイツ隊も切り取らなかったので、現在見ることができる。石窟は20世紀の探検隊によって壊されただけで無く、14世紀にイスラーム教徒がこの地に入ったときも多くが破壊された。残っているのは砂に埋もれて破壊を免れ、発掘されたものた。<大村次郷『遺跡が語るアジア』2004 カラー版中公新書 p.74-84>
イスラーム化
9世紀頃からトルコ系のウイグルが東トルキスタンに定住して西ウイグル王国を造ったことで中央アジアのトルコ化が進んだ。クチャもウィグル人が居住するようになったが、14世紀にイスラーム教の波が押し寄せた。ウィグル人のイスラーム化に大きな役割を果たした伝道師エシディンという人物の墓所「モナエシディン・マザール」が市街地から700mのところにあり、現在のものは18世紀に再建されたものだがミナレット、礼拝堂、前庭などを持つ宗教施設となっている。また現在のクチャの住民の90%はウィグル族のイスラーム教徒であり、その象徴となるのが「クチャ大寺」である。このモスクは16世紀にイスラーム教依禅派を興したイスハク・アリが建立しとされ、高さ20mのミナレットや数千人収容できる大礼拝堂がある(1931年に焼失、再建された)。<長澤和俊監修/吉村貴著『シルクロード歴史地図の歩き方』2001 青春出版社 p.74-81>