西トルキスタン
中央アジアのパミール高言より西に広がる草原地帯で、9世紀からイスラーム化し、トルコ系国家が興亡した。19世紀にはロシアが進出、ソ連に組み込まれたが、その崩壊後はウズベキスタンなど5ヵ国が成立した。
パミール高原を境に、トルキスタン地方の西半分を言い、およそアラル海・カスピ海までの地域。現在のウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタンの中央アジア5カ国と、アフガニスタンの北部の隣接地帯にあたる。古くはソグディアナといわれ、ソグド人などによる内陸交易が盛んで、東西交易のルートとなり、サマルカンド、ブハラ、タシケント、コーカンドなどの商業都市が栄えた。
イスラーム化が進み 、10世紀末にトルコ人イスラーム王朝カラハン朝が成立し、最初のトルコ系イスラーム国家となった。12世紀にはモンゴル高原から中国北部を支配していた遼が滅亡した際、その王族の一人耶律大石がこの地に移動してきてカラ=ハン朝を倒し西遼(カラ=キタイ)を建国、中国文化の影響もおよぶこととなった。
イスラーム化
8世紀にはイスラーム教の勢力が及んできて、マー=ワラー=アンナフル(川の向こうの地の意味で、アム川以北のこと)と言われるようになり、9世紀にはイラン系イスラーム王朝であるサーマーン朝が成立した。そのもとでその地のトルコ系の定住が進み中央アジアのトルコ化の結果、トルキスタンと言われるようになった。さらにモンゴルの攻勢
12世紀末にはセルジューク朝のトルコ人マムルークであった総督が自立してホラズム=シャー国が成立し、強国となった。しかし、13世紀にはモンゴルのチンギス=ハンに征服されモンゴル帝国に組み込まれたが、イスラームの文化は根強く残り、その後この地を支配したモンゴルのチャガタイ=ハン国もイスラーム化した。14~15世紀にはティムール帝国の支配をへて、ウズベク人のシャイバニ朝となり、さらにブハラ=ハン国、ヒヴァ=ハン国、コーカンド=ハン国の三国が鼎立するというイスラーム国家の興亡が続いた。近代の西トルキスタン
19世紀後半にはロシアの中央アジア侵出によってコーカンド=ハン国は滅ぼされ、タシケントに置かれたトルキスタン総督府の支配を受け、ブハラ=ハン国とヒヴァ=ハン国は保護国とされた。こうして西トルキスタンは「ロシア領トルキスタン」となったが、それはロシア直轄領とブハラ=ハン国・ヒヴァ=ハン国の二つの保護国から構成されることとなった。現代の西トルキスタン
ロシア革命によって西トルキスタンの諸民族も自立の機会を迎え、1917年にムスリム自治運動によってコーカンド(ウズベキスタンのフェルガナ地方)にトルキスタン自治政府が成立した。しかし、ロシア人を主体としたソヴィエト政権と対立し、翌年2月には倒された。1918年4月にトルキスタン自治共和国を樹立した。しかし、ウズベクやキルギスなどのトルコ系民族の統一をめざす運動は、民族主義的に偏向した汎トルコ主義であるとして、ソ連共産党中央から弾圧されて、1924年にソ連中央は民族的境界画定と称して西トルキスタンを5つの社会主義共和国に分割した。それぞれソ連邦に組み込まれることとなった。ようやくソ連崩壊に伴い、現在は、中央アジア5カ国(タジキスタン、キルギス、カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン)として独立した。