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イスマーイール派

イスラーム教シーア派の一分派で、十二イマーム派と分かれた。北アフリカでファーティマ朝を起こす。最も過激とされているが、さらにいくつかに分裂した。

 イスラーム教の主流派で多数派であるスンナ派に対して、少数派とされているシーア派はさらにいくつかの分派が分離した。その一つがイスマーイール派である。十二イマームの6代目イマーム・ジャーファル=サーディクの後継者をめぐる争いから分裂し、その長子イスマーイールの子孫をイマームとして信奉する一派が生まれた。それがイスマーイール派で、彼らはシーア派の中でも最も過激な一派として知られる。イスマーイール派に加わらなかった一派が後に主流の十二イマーム派を形成することとなる。

イスマーイール派の成立事情

 第6代イマームのジャーファル=サーディクはシーア派法学を理論づけた重要なイマームだったが、765年に毒殺された。シーア派ではムハンマドの甥であるアリーの血をひくことと、先任者の指名を受けることが絶対条件とされていたが、後継者に指名されていたイスマーイールがすでに亡くなっていたため、次のイマームを誰にするか問題となった。やむなく多くの信者は、ジャーファルがベルベル人の女奴隷との間に設けたムーサー=カーズィム(イスマーイールの弟)を第7代とすることで合意した。それに対して一部の人びとは、ジャーファルは息子イスマーイールを迫害から守るため一時的に隠しているに過ぎず、実は生きているのだとして、イスマーイールを第7代イマームに推した。結局決裂して、イスマーイールを第7代イマームとする人びとは、イスマーイール派として分裂した。<桜井啓子『シーア派』2006 中公新書 p.27>

イスマーイール派の分裂

 イスマーイール派は特に政治行動では反体制的な活動を行うことで知られ、各地に独立政権を作った。10世紀に北アフリカのチュニジアに興ってエジプトを支配したファーティマ朝もこのイスマーイール派の一分派が建国したものである。イスマーイール派からさらに分派したのが、ドゥルーズ派やアラウィー派、暗殺教団として有名なニザール派である。

ファーティマ朝

 ファーティマ朝909年、ムハンマドの娘ファーティマとその夫アリーの子孫と称したアブドッラーが北アフリカのチュニジアで挙兵してファーティマ朝を建て、翌910年にはカリフを自称し、バグダードのスンナ派アッバース朝のカリフと対立した。969年エジプトを征服し、カイロを建設して973年に都とした。972年にはアズハル学院を設立して、シーア派のイスラーム神学・法学研究の拠点とした。

イスマーイール派の衰退

 11世紀にはシリアをめぐりトルコ人のスンナ派政権セルジューク朝と争い、11世紀末にはイェルサレムを占領したが、そのころ聖地回復を掲げて侵攻してきた第1回十字軍と戦って敗れ、イエルサレムを奪われた。ファーティマ朝は十字軍との戦いで次第に衰退し、1171年に滅亡した。  代わって登場したサラーフ=アッディーンがエジプトに建てたアイユーブ朝はスンナ派政権であったので、これによってイスマーイール派はシーア派の中でも勢いを失い、その主流は十二イマーム派に移っていく。
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