アイユーブ朝
12世紀後半、サラーフ=アッディーンが建国しエジプトとシリアを支配したイスラーム教国。この地域のスンナ派支配を回復。また十字軍とも数度にわたり戦った。1250年にマムルーク朝に滅ぼされた。
1169年にサラーフ=アッディーン(サラディン)は、カイロでファーティマ朝の宰相に就任した。ファーティマ朝のカリフはすでに実権を失っており、実質的にサラディンはエジプトの権力を握った。この政権を、サラディンの父の名にちなんでアイユーブ朝という。ファーティマ朝のカリフは1171年に死去したので、形式的にはその年まで存続したことになるが、実質的には王朝交代は1169年であった。アイユーブ朝はシーア派であったファーティマ朝に代わり、エジプト・シリアのスンナ派信仰を回復した。スンナ派を信奉していたので、バグダードにいるアッバース朝カリフに対しては、その権威を認めていた。サラディンはさらに1174年にはザンギー朝に代わってシリアのダマスクスを制圧し、エジプトからシリアに及ぶスンナ派統一国家を樹立した。
サラーフ=アッディーンによる建国
ファーティマ朝はトルコ系奴隷兵のマムルークの勢力と黒人奴隷兵の対立が起こり、さらに十字軍の侵入を受け、カイロのカリフの権威は衰退していた。それに介入したシリアのザンギー朝のヌール=アッディーンはクルド人の部将アイユーブ家のシールクーフを派遣、シールクーフはカイロに入り、その実権を奪い、ファーティマ朝の宰相に就任した。1169年にシールクーフが急死したため、甥のサラーフ=アッディーン(サラディン)が宰相の地位を引き継いだ。彼はマムルークを主力に取り込み、実質的にアイユーブ朝を樹立した。シリアのザンギー朝はそれを認めなかったが、ついに1171年にファーティマ朝のカリフが死去したためサラーフ=アッディーンは完全に自立し、さらにシリアのザンギー朝の拠点ダマスクスも攻略し、エジプトからシリアにかけて統一政権を実現した。イクター制の施行とスンナ派の復興
サラーフ=アッディーンはエジプト統治にあたり、セルジューク朝の西アジアで広く行われていた、軍人に対して俸給に見合う金額を農民や都市民から徴税する権利を与えるイクター制を施行した。さらにサラーフ=アッディーンは1171年にファーティマ朝が滅びると、シーア派勢力をおさえ、エジプトにおけるスンナ派の支配を回復した。スンナ派国家としてはバグダードのアッバース朝カリフの権威を認めていたので、ファーティマ朝と違ってカリフは名乗らず、スルタンとして政治的支配にとどまった。十字軍との戦いとシリア進出
アイユーブ朝にとって最大の敵は十字軍国家のイェルサレム王国であった。サラーフ=アッディーンはエジプトとシリアを統一し、その勢いに乗って、十字軍に対する反撃に転じた。1187年にはヒッティーンの戦いでイェルサレム王国軍を破りイェルサレムを奪回した。それに対して、第3回十字軍が起こされ、イギリス国王リチャード1世の軍を迎え撃ち、アッコンは奪われたが、イェルサレム占領は許さなかった。衰退と滅亡
しかし、サラーフ=アッディーンの死後はその後継者たちがカイロとダマスクスに分かれて争い、領土は分割されて衰えた。1250年には第6回十字軍を破り、フランスのルイ9世を捕虜にしたが、その戦闘の中心となったマムルーク軍がクーデターを起こし、1250年にアイユーブ朝は滅亡し、エジプト・シリアの支配権はマムルーク朝に交替する。