クシュ王国/メロエ王国/メロエ文字
クシュ王国はナイル上流にあった黒人最古の王国。前8世紀、エジプトを支配しファラオを称したが、前6世紀にアッシリアの侵攻を受け後退し、メロエ王国となった。
クシュ王国
クシュはアフリカのナイル川の上流、現在のスーダン(古代ではヌビアとも言われた)にあたる。ここにアフリカの黒人最古の王国が成立した。およそ紀元前10世紀の頃、エジプト文明の影響を受けて成立したものと思われる。はじめはナパタを都として栄え、エジプト新王国時代にはその征服を受けたが、前8世紀頃は勢いを盛り返し、エジプト末期王朝の時期にはエジプト全土をを支配(第25王朝)しファラオを称したこともある。しかし、前671年にアッシリアがエジプトに侵入しすると、それに押されてナイル上流に後退した。さらに上流域に移動し、前540年頃、都を南のメロエに定め、これ以降をメロエ王国とも言う。メロエ文字と鉄器文明
クシュ王国の後半、前540年頃以降の都となったのがメロエで、そのため以降をメロエ王国(またはメロエ王朝)という。ナイル川に面し、紅海方面とナイル川上流域を結ぶ交易に中心地として栄えたらしく、現在遺跡が発掘されている。発掘の結果、多量の鉄製品や陶器が出土し、高度な鉄器文明を持っており、また独自のメロエ文字という象形文字も用いられていたことがわかっている。これはエジプトのヒエログリフを基にして工夫された独自の文字であるが、まだ解読されていない。Episode 「アフリカのバーミンガム」
サハラ以南のアフリカでは青銅器時代にあたる文化はほとんど見あたらず、石器時代から直接に鉄器時代に入った。アフリカで鉄器製造の最古の証拠は、ナイル渓谷のメロエ、およびナイジェリア北部から、ほぼ同時期に出土しているが、これはヨーロッパに鉄器が伝えられたのとほぼ同じ頃である。このうち、クシュ王国のメロエは、厖大な鉄の鉱滓(スラグ)が発見されていることから「アフリカのバーミンガム」と呼ばれているほどの製鉄の中心地であったが、紀元前2世紀ごろから急速に没落する。その一因として、製鉄燃料用の木材伐採による環境破壊があげられるほどである。<『新書アフリカ史・改訂新版』 2018 講談社現代新書 p.75>メロエ王国
前540年頃から、紀元後350年頃まで、ナイル上流の現在のスーダン(ヌビア地方)にあった黒人王国。ナイル上流のスーダンからエジプトを支配した黒人王国クシュ王国が、アッシリアによって圧迫されてナイル上流に後退させられ、前540年頃都をメロエに遷してからをメロエ王国という。都のメロエを中心に、プトレマイオス朝エジプトやローマ帝国とも交易を行い、またアフリカ内陸部の文化にも影響を与えた。ローマ帝国はたびたびこの地に遠征している。350年ごろ、アラビア半島からエチオピアに侵入したアクスム王国に圧迫されて滅亡した。
スーダン(ヌビア地方)のキリスト教国とそのイスラーム化
メロエ王国滅亡後、ヌビア人はナイル中流の現在のスーダンに三つの王国を作った。これらの王国では6世紀にビザンツ教会から伝道されたキリスト教が盛んになり、多くの教会が建設された。7世紀になるとエジプトを征服したイスラーム勢力がこの地に及んだが、ヌビア人はキリスト教信仰を捨てず、長く抵抗をつづけ、10~11世紀のエジプトのファーティマ朝に対抗するキリスト教国として存続した。しかし1171年にサラディンのアイユーブ朝が成立すると次第に圧迫されるようになり、1317年マムルーク朝の保護国となるに及んでイスラーム化した。<宮本正興/松田素二『新書アフリカ史・改訂新版』2018 講談社現代新書 p.178-182> → 近代のスーダンEpisode 忘れられたファラオ
(引用)多くの歴史家は、エジプトかその絶頂期にアフリカ内部の文明に征服されたということを認めたがらない。今日のスーダンにあったクシュ王国は紀元前800年ごろに絶頂期を迎え、エジプトを支配下に置いた。クシュ人は100年以上にわたってファラオとして統治し、その後自らの国境線の背後に退いた。クシュ文明は紀元後300年ごろまで1000年間も栄えた。彼らは何よりもまず家畜を育て、耕作を行う人々であったが、メロエにエジプト・スタイルの壮麗な都と神官の文化を築き、紅海を越えて交易活動を行った。彼らはまたアルファベットをもっとも早く発達させた人々であり、それはギリシアのそれと同じくらい完璧なものだった。しかし、彼らか輸出したものでもっとも注目すべきものは、象を訓練して戦争に活用したことであった(ハンニバルがアルプスを越えてローマと戦っだエピソードは、クシュ人から伝わった知識がもとになっている)。<クリス・ブレイジャ/伊藤茂訳『世界史の瞬間』2004 青土社 p.46>