アッシリア
メソポタミア北部のティグリス川上流地帯、現在のイラク北部一帯に興った民族。都市国家アッシュールとニネヴェを建設した。メソポタミア南部のアッカド、次いでウル第3王朝などの支配を受けながら次第に王国(古アッシリア)を形成したが、ミタンニの属国となった。その衰退後に自立し、西方のヒッタイトと抗争する中で次第に軍事力を強め、前9世紀にはメソポタミアを統一(新アッシリア)、鉄器と騎馬部隊を駆使して有力となり、前7世紀にはエジプトをも制圧し、オリエントを統一し、最初の世界帝国(アッシリア帝国)となった。 → アッシリア帝国
アッシリアの歴史
メソポタミア北部のアッシュールに都市国家を作っていたアッシリア人は前15世紀ごろミタンニなどに服属していた。その段階を古アッシリアという。彼らは前9世紀に鉄製の戦車と騎兵を使って有力となり、周辺の征服を開始し、西アジアの分裂時代を終わらせてメソポタミアを統一した。この段階から新アッシリアという。さらに前7世紀にエジプトを征服してクシュ王国をナイル上流のメロエに後退させ、オリエントを統一し、アッシリア帝国を形成した。これはメソポタミアとエジプトという二つの文明圏を含むオリエント世界を初めて統一的に支配した世界帝国であった。古アッシリアと新アッシリア アッシリアの歴史は長く、約1400年に及んでいる。メソポタミア文明の一部として都市国家文明を形成した前7000年頃~前2000年頃までは、シュメールの初期王朝・アッカド・ウル第3王朝の支配を受けていた。その後、王国を形成してからのアッシリアは次のように時期区分すると理解しやすい。特に領域国家であった古バビロニア時代と、世界帝国としての新バビロニアを段階的に区別すること。
- 古アッシリア時代(前2000年~1600年):メソポタミア南部の古バビロニア時代~バビロン第1王朝の時期。
- ミタンニの属国・中アッシリア時代(前16世紀末~前1000年頃):メソポタミア南部ではカッシート王国などが興亡
- 新アッシリア時代(前1000~前609年):メソポタミア全域からオリエント全域統一へ(アッシリア帝国)
世界遺産 アッシュール
アッシュール Ashur GoogleMap
→ ユネスコ世界遺産 アッシュ-ル(カラト・シャルカト)
アッシリアの文化遺産の多くは、アッシュールやニネヴェを発掘したイギリス人の手によってロンドンに運ばれ、現在も大英博物館に所蔵されている。
→ 大英博物館 ギャラリー アッシリア関係は1階のルーム6~10のバーチャルツアーができます。
古アッシリア
アッシリアは現在のイラク北部、ティグリス川中流域にあたり、北方のクルディスタン山地から流れる多くの河川がチグリス川に合流する地域であるので、農耕に適していた。しかもその西にはシリアを経てアナトリア(小アジア)につながり、南のメソポタミアのバビロン、東のイラン高原方面とを結ぶ交通の要地でもあった。アッシリア人は前3000年紀の末にアッシリア(アッシュール)地方に都市国家を作り、イラン高原のスズ(錫、青銅器の原料)の交易を独占して中継貿易で栄えた。メソポタミアではまず、南部に有力なシュメール人の都市国家が現れ初期王朝が生まれ、次いでアッカド王朝とウル第3王朝という領域国家が続くが、その間、アッシュールはその支配下に入っていた。
この古アッシリアから始まる「アッシリア王名表」を記した楔形文字の粘土板には新アッシリアに至る117代の王名が続いている。その年代を特定するのは困難だが、前1813年頃にはアムル人のシャムシ・アダト1世が王位を簒奪し、都をアッシュールからシュバト・エンリルに遷したので、この時期を「上メソポタミア王国」ということもある。王は周辺のマリなどの小国を征服して勢力を拡大したが、その死と共に王国は衰えた。この国はアッシリア人の国ではなく、セム系のアムル人が建てた国であった。
アムル人の国家 メソポタミアをウル第3王朝が治めていた時期に、ユーフラテス川の西側で遊牧生活を送っていたアムル人が移住して、いくつかの都市を築いた。彼らはウル第3王朝の衰退に乗じて国を建てるようになり、上メソポタミア王国もその一つだった。他にもイシン、ラルサなどがあって抗争し合ったが、その中から抜け出たのが、メソポタミア南部バビロニアにアムル人が建てたバビロン第1王朝であった。その第6代のハンムラビ王が前1759年頃、メソポタミア全域を統一する。その段階ではアッシリアも服属し、その属国となった。
アッシュール商人の中継貿易
アッシリアの都市アッシュールには、バビロニアからは織物がもたらされ、北東のイラン・アフガニスタンからは錫(スズ)が、北西のクルディスタンからは銅がもたらされ、交易の中心として栄えた。またアッシュールの商人は銅・錫・織物を西方のアナトリアに運び、その地で銀や金との交易を行った。このような広域の交易圏で活動していたアッシリア商人は、アナトリアで滞在する居住地を設けていた。最近、トルコのカッパドキア地方のキュル・テベ(古代名カニシュ)でそのようなアッシュール商人の居住地(カールムと言った)と思われる遺跡で発見された粘土板文書の解読が進み、彼らの活発な商業活動が明らかになっている。<小林登志子『アッシリア全史』2025 中公新書 p.64>アナトリアでアッシュール商人の活動したのは前19~18世紀であるが、次の前17世紀になると、アナトリア中央部にヒッタイトが登場してくる。前14世紀にはヒッタイトとアッシリアの交流が始まる。 → アッシリアの領域はヒッタイトの項の地図参照。
ミタンニの属国時代
前1500~前1000年頃のアッシリアは「中アッシリア時代」ということもあるが、前15世紀ごろから西方に起こったミタンニに服属した。このころオリエントは、ミタンニの東方にはメソポタミア南部はカッシート王国、イラン高原西部のエラムがあり、西方にはアナトリアにヒッタイトが台頭、さらにエジプト新王国も加わり、抗争と同盟が複雑にくり返される国際社会を形成した。アッシリアはミタンニがヒッタイトに敗れて衰退したことによって自立し、さらに前12世紀頃にヒッタイトが滅亡すると、その鉄器製造技術を受け継ぎ、また鉄鉱石の産地アルメニアを抑えたため次第に有力となった。
中アッシリア時代
前14世紀前半までにミタンニ王国の属国だったアッシリアが独立を回復した後、アッシリア王国はオリエント世界の一角でヒッタイトやエジプト新王国と対抗する勢力として存続した。この間、独立を回復して中興の祖となったアッシュール=ウバリト1世は大王を名乗り、エジプト王と手紙の交換をしている(アマルナ文書)。前13世紀には中アッシリア王国はトゥクルティ=ニヌルタ1世のもとで最盛期となり、ヒッタイトとの戦いを優位に進め、その結果、前12世紀初頭には、アナトリアで500年にわたり覇をとなえていた大国ヒッタイトは滅亡した。またこの王はバビロニアにも侵入し、バビロンの神殿から多くの粘土板を奪い、その祭儀の形態なども取り入れて、メソポタミア全土の支配者としての権威を高めた。前12世紀の危機 しかし宮廷内では権力争いが続いており、「アッシリアの英雄」と謳われたトゥクルティ=ニヌルタ王は、後継者によって前1196年に殺害され、南部ではカッシート王国の反撃もあって、アッシリアは急速に衰えた。この時期、前12世紀は、メソポタミアだけでなく、古代オリエント世界、東地中海世界の広範囲にわたって、混乱期に入っていた。それをもたらしたのは「海の民」の活動であり、そのためアッシリア周辺の交易活動が壊滅的な打撃を与えられた。アッシリアでは王の孫のティグラト=ピレセル王の時、西方や南方での領土を回復し、『アッシリア法令集』の編纂による法整備と官僚制、宦官と後宮の制度などがすすみ、次の新バビロニア時代への基礎がつくられた。
新アッシリア
アッシリアは、オリエントの分裂時代にも国家を存続させ、前9世紀には鉄製の戦車と騎兵隊を採用して、次第に強大となった。この前1000年頃以降を新アッシリアともいい、前8世紀の終わりごろ、サルゴン2世、次いでセンナケリブ王のもとでシリア、フェニキア、バビロンをつぎつぎと併合し、イスラエル王国を滅ぼすなど、帝国建設が進められた。前663年には、アッシュール=バニパル王が首都のニネヴェをはじめ、ニップール、コルサバード、アッシュールなど多くの遺跡が発掘され、楔形文字の解読による「アッシリア学」がイギリス、フランスで盛んである。