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ソンガイ王国

15世紀に成立した西アフリカ、ニジェール川流域の黒人イスラーム教国。1591年、モロッコの鉄砲隊の侵攻により滅ぼされた。

アスキア=ムハンマドの墓
アスキア=ムハンマドの墓
山口昌男『アフリカの栄光
と悲惨』p.37
 15~16世紀、西アフリカのニジェール川流域に登場したイスラーム教国でサハラ世界で最大の領土を有して繁栄したので、ソンガイ帝国、あるいは都の名前を取ってガオ帝国などとも言われる。ガーナ王国マリ王国とほぼ同じ領域を支配したが、その中では最大となった。1468年にはトンブクトゥ、1473年ごろにはジェンネの町を支配し都はガオに定めた。領内には岩塩が豊富に産出し、サハラ以北のマグリブ地方のベルベル人諸国と盛んに交易し、繁栄していた。

全盛期

 全盛期の王アスキア=ムハンマド(在位1493-1528)は、1497年にメッカ巡礼を行い、チュニスやカイロに至るルートを押さえ、宗教・交易の中心地トンブクトゥは空前の繁栄をみた。

滅亡

 しかし、彼の死後は疫病や干ばつもあって次第に衰え、北方のモロッコサード朝マンスール王の侵入を受けて1591年に滅亡した。この時のモロッコ軍は、指揮をしたのは元キリスト教徒のスペイン人宦官、兵も1000人が1492年グラナダのイスラーム王朝が陥落した後、スペインからモロッコに逃げてきたムスリムのアンダルシア人、もう1000人が元キリスト教徒背教者だった。またこのときモロッコ軍は、スペイン出身の兵を鉄砲隊に組織、10門の迫撃砲も所持していた。この戦いは鉄砲がサハラ以南のアフリカ社会にもたらされた初期の戦闘であり、それによって黒人王国が敗れた。<宮本・松田編『新書アフリカ史』1997 講談社現代新書 p.198-199 など>

Episode アフリカの“長篠の戦い”

 ソンガイ帝国は西アフリカのサヴァンナで無敵と言われた大騎馬軍を擁していた。その馬はサハラ交易によって奴隷との交換でアラブ人から得たものだった。南部モロッコのサード朝君主マンスールが、サハラの塩の採掘権を手に入れるためガオを支配下におさめようとして、1591年に少数の鉄砲隊を送ると、それまで鉄砲隊を知らなかったガオの騎馬軍を潰走させた。17世紀にトンブクトゥで編まれた史書『タリフ・アル・ファターシュ』におると、砂漠を越えてきたモロッコ軍は1000人、迎え撃ったガオ軍は、1万8千の騎兵と9700の歩兵からなっていたといわれる。同時代のトンブクトゥのもう一つの史書『タリフ・アル・スーダーン』は、モロッコ軍3000、ガオ軍は騎兵1万2500、歩兵3万という数字を上げている。いずれにせよモロッコの鉄砲隊は、ガオの騎馬軍とは比較にならない寡勢だった。前書によれば、ガオの騎馬軍は、直接の戦闘による損害を少なくするため、1000頭の荒くれ牛を先に立て、モロッコ軍を蹴散らそうとしたが、モロッコ軍が牛の群れに鉄砲の一斉射撃を浴びせると驚いた牛たちは向きを変えて全力で逃げ出したために、ガオの騎馬隊は敗走したという。この16年前に日本でも長篠の戦いで新兵器鉄砲を装備した織田軍が武田の騎馬軍を破っている。いずれの場合も、当時の先込め銃による、実際の殺傷よりも轟音の威力効果がもたらした勝利だと言えるだろう。なお、サハラ南縁ではこれより早くボルヌー王国に1570年代にオスマン帝国の支配していたリビアから鉄砲がもたらされており、やや遅れて17世紀からはギニア湾沿岸の黒人王国にヨーロッパの鉄砲が大量にもたらされることになる。<川田順造編『世界各国史・アフリカ史』2009 山川出版社 p.214-215>  → 銃による軍事革命

世界遺産 アスキアの墳墓

 ソンガイ王国の都であったガオ(現在はマリ共和国。トンブクトゥの東300km)には、15世紀の全盛期の王アスキア=ムハンマドの墳墓が残されており、1988年に世界遺産に登録された。墳墓は1495年に建設されたもので、日干し煉瓦と泥でできたているが、形状はピラミッド型である。これは、墳墓の主アスキア=ムハンマドがメッカ巡礼の途次にカイロのピラミッドを見て、それを真似たのだろうと言われている。目を引くのは無数に突き出た横杭であるが、これは壁を泥で塗り替える必要があり、その時の足場であるという。<2009年4月29日放送 NHK「世界遺産への招待状」による>

Episode 西アフリカの建造物

 西アフリカのサヴァンナ地帯の黒人国家の遺跡が残ることは少ない。この地帯の建物は大部分日干し煉瓦づくりで、集中して降る雨のために、ふつう数十年でくずれてしまい、石と焼煉瓦と漆喰で固めたマグリブの都市のように千年近くにわたる王朝の歴史が物質化されて累積することはなかった。古代ガーナの都とされるクンビ=サレーはおそらく石作りの町の南限でサハラ南縁の砂漠の中から発掘されたが、マリ王国の首都の後は確かめられない。ソンガイ王国の都ガオは、1854年にドイツの探検家バルトが発見したときは3~4百戸の小屋の並ぶ村にすぎなかったという。俗に「アスキアの墓」と呼ばれている泥の建造物も、バルトの50年余りののちに、フランス人デュボアが訪れたときは、もうバルトが見た二つの塔の内、一つの塔はなく、もう一つの、七層だったものは三層になっていたというから、変化の激しさを推察できよう。<川田順造『マグリブ紀行』1971 中公新書 p.102-103>  
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書籍案内
山口昌男
『世界の歴史〈6〉黒い大陸の栄光と悲惨』
1977年 河出書房

川田順造
『マグリブ紀行』
1971 中公新書