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アフリカ産の金はイスラーム圏との交易を通じヨーロッパにももたらされた。15世紀にはポルトガル商人がアフリカ西岸の金取引に進出した。

 アフリカのニジェール川上流域にあったガーナ王国(8~11世紀)では、産出する金をサハラ産の岩塩と交易した。ガーナ王国でははじめセネガル川のバンブク地方で産出し、次第に東に移り、ニジェール川上流のブーレ地方、さらに東のボルタ川流域へと移動した。当時のアラビア語史料には、ガーナ王国は「黄金の国」として知られ、「黄金がニンジンのように土から生える」といった話が伝えられている。

西アフリカの金

 ガーナ王国がモロッコのムラービト朝によって滅ぼされた後、ニジェール流域の西アフリカにはマリ王国(14世紀)、ソンガイ王国(15世紀)がいずれも金の産出国としてサハラ交易で栄えた。アフリカ内陸がムスリム商人とのサハラ交易によって金の産地であることがヨーロッパに知られると、まず15世紀からポルトガルが直接に金の産地に到達しようと、アフリカ西海岸の探検を開始した。 → ポルトガルの大航海時代
黄金海岸 西アフリカ産出の金は、ヨーロッパの中世後期にアラブ商人を介して陸路でイタリアに入っていた。フィレンツェのフローリン、ヴェネツィアのドゥカートなどの金貨の一部にはこの西アフリカ産の金が使用されていた。西アフリカ産の金の情報は間もなくポルトガル人に伝わった。アルフォンソ5世からシェラレオネ以南の探検と貿易の独占権を与えられたリスボンの商人フェルナン=ゴメスは、1471年にギニア湾に二隻の船を派遣し、象牙や食料の他に多くの金を手に入れた。現地の仲介人を通じて奥地から運ばれた金を獲得し、この地は後に「黄金海岸」(現在のガーナ共和国)と言われるようになり、ジョアン2世は、1482年にエルミナに要塞を建設し、金・黒人奴隷・胡椒・象牙などの獲得拠点とした。金と交換されたのはベニンやコンゴで獲得された黒人奴隷だった。黒人奴隷は地方市場で売買され、奥地での荷役や鉱山の採掘で使役された。<池本幸三/布留川正博/下山晃『近代世界と奴隷制―大西洋システムの中で』1995 人文書院 p.99>

東アフリカの金

 東アフリカでは8世紀からソファラが金の産地として知られるようになり、ムスリム商人によってインド洋交易圏の交易品としてもたらされるようになった。

ブラジルの金

 ポルトガルの植民地となったブラジルでは1690年代に、内陸のミナスジェライスで金鉱脈が発見され、さらにダイヤモンドも産出することが判明して、ブラジル版ゴールド=ラッシュが起こった。多くのポルトガル人がトルデシリャス条約の境界を越えて奥地の開拓に向かい、ブラジルの領土は拡大した。ブラジル産の金は18世紀の半ばには世界の総生産量の85%を占め、リオ=デ=ジャネイロは、金の積出港として繁栄した。ブラジルは17世紀末からの18世紀末まで百年間は「金の時代」と言っている。この金は本国ポルトガルのリスボンに運ばれたほか、1703年にはポルトガルとのメシュエン条約を結んだイギリスがブラジルでの取り引きにも乗りだし、工業製品を売り込んだ代価として金を受けとったので、18世紀にはロンドンにもたらされ、産業革命の資金の一部になっていった。

 → 北米アメリカ大陸のゴールド=ラッシュ
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