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火砲/火器/大砲/鉄砲

13世紀ごろ中国から火薬が伝わり、百年戦争で大砲の使用が始まり、15世紀末、イタリア戦争で鉄砲が一般化した。そのため騎馬戦術が後退し、鉄砲で武装した歩兵による集団戦に戦術が変化する軍事革命が起こった。

 中国では11世紀頃までに硝石、硫黄、木炭を主成分とした黒色火薬が知られていた。火薬の製造法は13世紀のモンゴル帝国バトゥのヨーロッパ遠征によってヨーロッパに伝えられたこともかんがえられるが、本格的には十字軍時代の末期に、イスラーム世界との接触によって火薬製造が広がったとの見方もある。

百年戦争での大砲の使用と戦術の変化

 次第に発火装置が改良されて、14世紀末から15世紀の百年戦争の時代に、火薬で砲弾をとばす大砲が出現した。しかし命中率は低く、もっぱらその大音響で敵を驚かすものであったと思われる。百年戦争ではイギリス軍が20門の大砲を使用したという。
 この時期の戦術の変化は、重装備で騎馬で戦う騎士たちを主力とした戦いではなく、弓矢や弩(おおゆみ)を持った歩兵が集団で戦う戦法に変化したことである。百年戦争の前半でイギリス軍が有利に戦いを進めたのは、フランス軍が旧来の騎士の騎馬戦で戦おうとしたのに対し、長弓を持った歩兵の集団戦で戦い、勝利を占めたことにあると言われている。このような戦術の変化も、騎士(中小領主)の没落の背景であり、英仏とも封建的軍隊から国民的軍隊に編成替えする必要が出てきたことを意味している。しかし百年戦争ではまだ鉄砲は使われていなかった。

大砲の出現

 大砲は初めは鋳物として作られ、臼砲とカノン砲の二種類があった。臼砲は大きな弾丸を高く発射して着弾させるもので砲身は太くて短く、カノン砲は小型の弾丸をまっすぐ飛ばして目標に当てるもので砲身は細くて長い。砲弾は初めは石だったが鉛から鉄になり、15世紀中頃には破裂弾も作られた。また独立した砲兵隊が車に乗せた大砲を運搬するようになった。1453年、オスマン帝国軍によるコンスタンティノープル総攻撃でも大砲が大いに効力を発揮した。
 中国では、明王朝がイエズス会宣教師マテオ=リッチアダム=シャールから学んで製造した大砲を使い、1626年、満州人ヌルハチの後金軍の侵攻に対抗した。しかし形勢はやがて逆転し、清のホンタイジはみずから大砲を手に入れ、山海関を越えて中国本土に入り、明朝に圧力を加えた。ホンタイジは大砲に「紅衣大将軍」という称号を贈ったという。

鉄砲の登場と軍事革命

 その大砲を小型化して持ち運べるようにしたのが小銃で、1424年に現れた火縄銃が最初であるとされている。ドイツでは14世紀末に小型の銃器が発明されていたという記録もあるが、それは武器としての威力には乏しかったと思われる。なお、1419年に始まるフス戦争では、フス派の過激派がはじめて実用的な小銃を考案して使用したのが銃器の実用化の最初とも言われているが、本格的な火縄銃が現れたのが1424年ごろであったと考えられる。<この項、代ゼミ教材センター越田氏のご教示による>
 ヨーロッパではルネサンスの末期にあたる15世紀末から16世紀前半に起こったイタリア戦争で、火砲の使用が急速に重要度を増し、戦争の形態を一変させる軍事革命が起こった。さらに17世紀には火打ち石装置の銃に改良され、18世紀以降は大砲・小銃とも急速に発達して、戦争の時代を出現させ、騎士としての封建領主階級を完全に没落させることとなった。 → 常備軍 徴兵制

ヨーロッパの大砲

 ヨーロッパでは15世紀に大砲が登場した。真鍮で鋳造し、高度の爆発物を装填し、重い砲弾を発射できた。300ヤード以上の距離で発射された重量60ポンドの鉄の弾丸は人を殺傷するだけでなく、舷側に搭載して一斉射撃し、マストを倒し甲板に穴を開けて敵船を沈めることが出来た。16世紀には陸上でも海上でも先頭においては火力が急速に用いられるようになり、17世紀には火力が支配的になった。18世紀には砲の力が極めて重要となり、戦艦は甲板に可能な限り多くの、性能の良い砲をおくかという競争になっていった。<M.ハワード『ヨーロッパ史における戦争』中公文庫 p.78>

各地での鉄砲の普及

 ヨーロッパ以外でも鉄砲は新たな武器として急速に広がっていった。西アジアでは、オスマン帝国イェニチェリ軍団を鉄砲で武装させ、1514年チャルディランの戦いサファヴィー朝キジルバシュ(トルコ系遊牧民からなる騎兵部隊)を撃破した。敗れたサファヴィー朝では次のアッバース1世が軍制改革を行い、キジルバシュを削減して常備軍と火砲を導入し、オスマン帝国に反撃した。また、インドにおける1526年のバーブルがロディー朝を破ったパーニーパットの戦いにおいても、バーブルはポルトガル人から手に入れた鉄砲で、騎兵を主力としたロディー朝を破り、北インド進出を果たし、ムガル帝国を建設した。
 16世紀の初め、新大陸でのスペインの征服者たちは、火砲と騎兵を駆使して、それらを知らないアステカやインカの文明を破壊し、征服していった。
 日本には1543年に種子島に来たポルトガル人によって鉄砲が伝来し、戦国大名に普及、1575年の長篠の戦いでは織田信長の鉄砲隊が、武田氏の騎馬部隊を破ったといわれている。これはオランダ独立戦争(1568~1648年)において、1594年に鉄砲が組織的に使われ、三十年戦争(1618~48年)でその戦術が一般化したことに先立つ例であった。 → 軍事革命の項参照
 アフリカでは1591年にモロッコ軍が鉄砲で武装して南下し、ソンガイ王国の騎馬部隊を撃破している。

出題 2015年センターテスト 世界史B 第3問 B(改題)


『満州実録』に描かれたサルフの戦い(1619年)
の一場面(左側が後金の騎兵)
 東アジアで発明され、ヨーロッパで改良された火器は、16世紀に再び東アジアにもたらされ、軍隊や戦術を大きく変えた。戦国時代の日本では、鉄砲が急速に広まったが、堅固な城壁をもつ都市が発達していた中国では、ヨーロッパ式大砲も普及した。清(当初は後金)の建国の記録『満州実録』には、( ア )の軍隊が大砲や小銃などの火器を多数装備している様が描かれている(右図参照)。清側も、( ア )の火器や城塞に対抗するため、主力部隊である( イ )の中に、投降した漢人による砲兵部隊を創設した。しかし、野戦ではなお騎兵が有効であり、清と遊牧国家ジュンガルとの戦争は、騎兵と火器の双方を用いて戦われた。
 問 空欄の(ア)、(イ)に入る語句を答えよ。

解答



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