バントゥー語
アフリカ中央部から南部にかけて広く分布するアフリカ最大の言語圏を持つ。鉄器使用と農耕を開始し、アフリカ内陸・東部に移動しながら多様な文化を形成した。東部ではアラビア語と融合してスワヒリ語が生まれた。なお、バントゥーとはもともと人々を意味しており、バントゥー語系のアフリカ人をバントゥーともいう。
バントゥー語(バンツー語とも表記する)は、アフリカの原住民が使用する言語でもっとも広く分布し、カメルーン、コンゴ、中央アフリカから南アフリカ、アフリカ東海岸に広がる。さらにバントゥー語系の言語には、バントゥー語が東海岸でイスラーム教徒の使用するアラビア語と混じり合って生まれたスワヒリ語なども含まれる。バントゥー語系の言語は、アフリカ大陸の約3分の1の地域に及んでいるという。また、バントゥー語を使用する人々は「バントゥー」ともいわれ、アフリカ人をも意味するようになった。また、ほぼ赤道地帯以南で最南端を除いた範囲を「バントゥー・アフリカ」とも呼んでいる。バントゥー・アフリカの移動と拡散した地域には、すでに非バントゥーの人々が狩猟生活を送っていたが、彼らはより生活の困難な砂漠地帯に追いやられた。その子孫がコイコイ人(ホッテントット)やサン人(ブッシュマン)であり、彼らは環境に適応しながら、独自の非バンドゥー・アフリカ世界を生き抜いていった。
原バントゥー語をはなす集団は、現在のナイジェリアとカメルーンの国境付近であると推定されており、紀元前1000年頃に移動を開始した。その背景には、5000年前頃の地球環境の変化によって乾燥化が進み、かつて緑のサバンナ地帯が砂漠化し、さらに1000年ほど遅れて熱帯雨林がサバンナ化したという気候変化の影響が考えられる。3000年前には南方の湿潤地帯で森林の後退しサバンナ化したコンゴ盆地周辺に移動し、狩猟民に代わって農耕生活を開始したと思われる。紀元前3世紀までには彼らは東方に分布をひろげ、ビクトリア湖周辺まで達した。それとは別に、海岸部に沿って南下したグループもあり、この流れはやはり紀元前3世紀までにコンゴ盆地南部に到達した。かれらの拡散のスピードは紀元前1000年から1500年間に直線距離にしてほぼ4000km、年間平均2~3kmずつ拡大していったことになり、このような短期間における急速かつ広汎な分布域の拡大は、歴史的の他の民族移動とくれべて見ても、ムハンマド以後のイスラーム教の拡張に匹敵するものである。<宮本正興・松田素二編『新書アフリカ史・改訂新版』2018 講談社現代新書 p.72>
バントゥー語系の移動と拡散は常態となり彼らの生活様式をつくりあげ、その伝統は現在まで受け継がれている。一方でこうした移動によって異なる技術や生活様式をもつ人々と各地で共存することとなった。東アフリカに進出したバントゥー語系住民は、そこでクシ系住民の文化――エチオピア起源の作物や家畜を飼育する文化――を取り入れ、中央アフリカの森林地帯ではピグミー系狩猟採集民と共生して交換関係を作り上げた。南部アフリカの森林地帯では先住民のコイサン系住民をカラハリ砂漠周辺の乾燥地域に追いやる一方で、物資や労働の交換を続けながら「棲み分け」をしていた例もある。<『同上書』p.77>
15世紀の終わりごろ、ポルトガル人がコン川河口に現れ、コンゴ王国との接触が始まったことから、アフリカ内陸のバントゥー社会にさらに大きな変化が起こった。ポルトガル商人はアフリカ内陸の象牙などを手に入れる一方、まもなく、アメリカ大陸のインディオが食料としていたキャッサバをアフリカに持ち込んだ。キャッサバは農産物としてはバナナ以上に土地生産性が高く、しかも養分の少ない土壌でも生育する作物であり、この作物がコンゴ盆地とその周辺の農作物に加わることにより、農業生産は飛躍的に安定した。コンゴ川の水路を通ってアフリカ内陸に広がったキャッサバは、16世紀から19世紀の大西洋黒人奴隷貿易の時代にアフリカ人の生活を支える食料となり、キャッサバの広がったルートで沿岸部の塩やヨーロッパの銃、火薬、衣料が運ばれ、それとは逆方向に、銅や鉛、木材、象牙、そして黒人奴隷が河口に港に運ばれ、「輸出」されていった。<『同上書』p.96-97>
バントゥー語系集団の拡散
バントゥー語系の人々は、語彙と文法の上で極めてよく似た細かく分ければ400~600くらいの集団から成っている。バントゥー Bantu とは、本来これらの言語に広く共通してみられる語根 -ntu からの派生語で「人々」の意味である。ということは、これらの集団が比較的最近になって分岐したことを意味している。原バントゥー語をはなす集団は、現在のナイジェリアとカメルーンの国境付近であると推定されており、紀元前1000年頃に移動を開始した。その背景には、5000年前頃の地球環境の変化によって乾燥化が進み、かつて緑のサバンナ地帯が砂漠化し、さらに1000年ほど遅れて熱帯雨林がサバンナ化したという気候変化の影響が考えられる。3000年前には南方の湿潤地帯で森林の後退しサバンナ化したコンゴ盆地周辺に移動し、狩猟民に代わって農耕生活を開始したと思われる。紀元前3世紀までには彼らは東方に分布をひろげ、ビクトリア湖周辺まで達した。それとは別に、海岸部に沿って南下したグループもあり、この流れはやはり紀元前3世紀までにコンゴ盆地南部に到達した。かれらの拡散のスピードは紀元前1000年から1500年間に直線距離にしてほぼ4000km、年間平均2~3kmずつ拡大していったことになり、このような短期間における急速かつ広汎な分布域の拡大は、歴史的の他の民族移動とくれべて見ても、ムハンマド以後のイスラーム教の拡張に匹敵するものである。<宮本正興・松田素二編『新書アフリカ史・改訂新版』2018 講談社現代新書 p.72>
鉄器と農耕
バントゥー語系の人々は、それまでのピグミー系、あるいはコイサン系の狩猟採集民が居住していた赤道以南の森林やサバンナにその分布を急速にひろげ、紀元1000年頃までに、森林性の農作物――雑穀や豆類、ヤマノイモ、アブラヤシなど。後に東南アジア起源のバナナや新大陸起源のキャッサバが加わる――を栽培するとともに、鉄器を導入することによって、かつては人間の居住には不適とされていたコンゴ盆地に、ほぼくまなく分布するに至った。バントゥー語系の移動と拡散は常態となり彼らの生活様式をつくりあげ、その伝統は現在まで受け継がれている。一方でこうした移動によって異なる技術や生活様式をもつ人々と各地で共存することとなった。東アフリカに進出したバントゥー語系住民は、そこでクシ系住民の文化――エチオピア起源の作物や家畜を飼育する文化――を取り入れ、中央アフリカの森林地帯ではピグミー系狩猟採集民と共生して交換関係を作り上げた。南部アフリカの森林地帯では先住民のコイサン系住民をカラハリ砂漠周辺の乾燥地域に追いやる一方で、物資や労働の交換を続けながら「棲み分け」をしていた例もある。<『同上書』p.77>
Episode バナナ革命とキャッサバ革命
5世紀ごろ、コンゴ川流域の熱帯雨林に暮らすバントゥー語系住民の農耕社会の重要な基幹作物となるバナナの栽培が始まった。バナナは東南アジア原産で、アフリカに伝えられたのは現在の私たちが食べる果実用バナナではなく、料理用バナナであるプランテンバナナといわれる品種であった。バナナはそれまでの主食のヤムイモに必要な乾季の時期がなくともよく、耕起や整地の作業もイモ栽培より作業が簡単で、開墾によって耕地を拡大するのに適していた。つまり、ヤムイモよりも労働生産性に優れていたバナナは、この地域の人口の劇的な増大を引き起こしたと考えられる。バナナの高い生産性は自家消費を超えた生産の可能性を保証し、それによって狩猟採集民と焼畑農耕民の間の交換が展開され始めた。このような意味でバナナの導入は、いわばバナナ革命とでも言うような大きな変容をこの森の世界に残したのである。<『同上書』p.84-86>15世紀の終わりごろ、ポルトガル人がコン川河口に現れ、コンゴ王国との接触が始まったことから、アフリカ内陸のバントゥー社会にさらに大きな変化が起こった。ポルトガル商人はアフリカ内陸の象牙などを手に入れる一方、まもなく、アメリカ大陸のインディオが食料としていたキャッサバをアフリカに持ち込んだ。キャッサバは農産物としてはバナナ以上に土地生産性が高く、しかも養分の少ない土壌でも生育する作物であり、この作物がコンゴ盆地とその周辺の農作物に加わることにより、農業生産は飛躍的に安定した。コンゴ川の水路を通ってアフリカ内陸に広がったキャッサバは、16世紀から19世紀の大西洋黒人奴隷貿易の時代にアフリカ人の生活を支える食料となり、キャッサバの広がったルートで沿岸部の塩やヨーロッパの銃、火薬、衣料が運ばれ、それとは逆方向に、銅や鉛、木材、象牙、そして黒人奴隷が河口に港に運ばれ、「輸出」されていった。<『同上書』p.96-97>