民族移動
世界史上、幾度かの大規模な民族移動が繰り返された。4~5世紀のゲルマン人の移動がよく知られているが、それだけではなく古代から現代まで、さまざまな形態での民族移動が行われいる。
世界史上の主な民族移動
世界史上、もたびたび民族移動の波が起きるが、その要因としては、気象の変化・食糧事情の変化・なんらかの社会的変化が考えられる。しかしまだ解明されたとは言い難い。その原因は単一ではなく、多くの要因が重なっており、またもたらした影響も多様である。世界史上の重要な民族移動の現象には、主なものとして、次のような時期と民族をあげることができる。人類の拡散 ただし、現生人類の登場は現在ではアフリカ単一起源説が有力であり、アフリカからユーラシア大陸、新大陸、さらに大洋州へと拡散していたと考えられている。これは「民族」の形成以前のことになるので、ここでは取り上げない。 → 人類の拡散を参照。
その他の民族移動 また民族移動には上記の例の他に、アフリカ大陸におけるバントゥー語諸族の移動と拡散がある。バントゥー語諸族の移動は西アフリカから東アフリカにむけて、紀元前1000年から紀元後500年頃の間に急速に行われ、農耕・牧畜文明の形成とともに、アフリカの歴史に重要な意味をもっており、注目すべき民族移動の一つである。その他、近現代では戦争や政治的対立のため、あるいは事前災害のための難民も、広い意味では民族移動に含めることができる。
インド=ヨーロッパ語族の民族移動
紀元前2000年ごろから前1500年頃までの間に、インド=ヨーロッパ語族の南下を中心とした大規模な民族の移動が起こった。それまでセム系民族の農耕社会であった西アジアに大きな変化をもたらした。小アジアに移住し、メソポタミアに勢力を広げたヒッタイト人がその代表的な民族で、ミタンニやカッシート(ミタンニとカッシートについては非インド=ヨーロッパ語族との説もある)がそれに続いた。その一部と思われるヒクソスは前1650年頃、エジプトに移住し支配した。また、エーゲ文明の地域に南下してそれを征服したギリシア人や、前1500年頃に北西方面からパンジャーブに侵入してインドに新たな文明を形成したアーリヤ人、イラン高原に入ったイラン人などがこの民族移動の一連の動きと関連があると考えられている。これらの民族移動は、それぞれの地域に鉄器文化を伝え、鉄器時代をもたらしたという共通項もある。ヘブライ人がパレスチナに定住したのもこのころとされている。なお、中国では黄河中流に殷王朝があった時代であった。
紀元後4~5世紀の民族移動
同じような民族移動は、紀元後の4~5世紀の同じ時期に、中央アジアの遊牧民の移動である五胡の活動とそれによってもたらされた魏晋南北朝の変動や、フン人(漢に圧迫された匈奴の一部と考えられている)の移動に押されて起こったゲルマン人の大移動などをあげることができる。ユーラシア大陸の東西で、同時期に民族移動の波が起きていることが注目される。五胡の移動と魏晋南北朝の動乱は隋唐という中国の新たな王朝国家を出現させ、ゲルマン人の大移動は、古代ローマ帝国の滅亡を招いて中世ヨーロッパ世界を出現させたという、共に大きな変化の要因となった。ゲルマン人の大移動の結果、ローマ帝国領内に移住、定着したいくつものゲルマン人部族が国家を建設した。西ゴート人はイベリア半島、東ゴート人はイタリア、ブルグンド人は南西フランス、フランク人は北西フランス、アングロ=サクソン人はブリテン島に入ってそれぞれ建国した。最も長期的に移動したヴァンダル人は北アフリカに建国した。しかしこれらの多くのゲルマン系国家は永続きせず、最終的にフランク王国だけが残ることになる。
ゲルマン人の西ヨーロッパから地中海世界への移動、拡散と並んで、東ヨーロッパではフン人に続いてアジア系のアヴァール人のパンノニア(ハンガリー)への移動があり、インド=ヨーロッパ系のスラヴ人と混交していった。アヴァール人がフランク王国のカール大帝に征服された後、9世紀にはスラヴ系国家が形成されるとともに、東方からマジャール人が移動してくなど、重層的な民族移動が繰り返されている。
注意 「民族移動」という言い方は正しいか 私たちは「ゲルマン民族の大移動」という言い方に何の疑問を感じないが、フランスではこの用語は用いられない。それではなんというのか。「ゲルマン人の大移動」の項を参照してください。
9~12世紀の民族移動
ヨーロッパではゲルマン民族の大移動を第1次民族移動とし、9世紀に始まる同じゲルマン系のノルマン人の移動は第2次民族移動と言われている。もともとスカンジナビア半島周辺にいた海洋民族であったノルマン人は、おそらく人口の増加などの要因から、より生産性の高い地域を目指して、主として海洋を利用して進出した。その活動は多方面に及んでおり、ヴァイキングと言われたブリテン島やフランスの海岸に進出した人々がまずあげられる。彼らの一部はフランスのカペー朝から土地を与えられ、ノルマンディー公国を作った。またノルマンディーからさらに地中海方面に進出し、南イタリア・シチリア島に上陸して、イスラーム教勢力と競合しながら両シチリア王国を建国した。さらにバルト海沿岸から内陸に入ったルーシといわれる人々はノヴゴロド国をつくり、それがその地のスラヴ人と同化を重ねていって後のロシア国家のもとになった。なお、ノルマン人の一部は大西洋を横断して、北アメリカに到達していたことが遺跡から明らかになっている。彼らは絶滅してしまったが、コロンブスより以前にヨーロッパ人が新大陸に到達していたわけである。
トルコ系民族の大移動
民族移動の学習ではゲルマン民族やノルマン人に目がいきやすいが、彼らの専売特許ではない。特に6世紀ごろからのトルコ系民族の移動と拡張はユーラシアにおけるモンゴル人の大発展に先行する民族の動きとして重要である。彼らはもともとモンゴル高原の東側で遊牧生活を送っており、6世紀には突厥という大遊牧帝国を作り、中国の唐王朝を圧迫した。突厥はトルコの漢語表記である。彼らは多くの部族に別れて、興亡を繰り返しながら8世紀にはその中のウイグルが有力となった。840年、ウイグルが同じトルコ系のキルギス人に滅ぼされたとき、その一部が西に移動してパミール高原の東側のタリム盆地や西側のソグディアナに定住するようになった。そこからこの地域をトルキスタン(トルコ人の地)というようになった。ソグディアナにはイラン系のソグド人が商業活動をおこなっていたが、彼らもトルコ化していった。またトルコ系ハザール人は南ロシアの草原に移動しハザール=カガン国を建国した。それより前、西からイスラーム教が及んできて、751年にはアッバース朝と唐がタラス河畔の戦いで衝突した。これ以後、徐々にトルコ人のイスラーム化が進み、9世紀の中ごろ、トルコ系のカラハン国がトルコ系最初のイスラーム国家となる。11世紀に中央アジアに登場したセルジューク朝は西方への移動を開始し、やがてイラン高原からメソポタミアに入りアッバース朝からスルタンの地位を認められて西アジアの中心勢力となった。その一部は小アジアに入り、ビザンツ帝国領を浸食し、キリスト教世界に大きな脅威となり、十字軍運動が起こされる契機となった。
セルジューク朝は十字軍との抗争で衰退し、モンゴル帝国によって滅ぼされるが、モンゴル人の後退の後は小アジアにはトルコ系のオスマン帝国が台頭し、さらにバルカン半島に進出、アジアとヨーロッパにまたがる帝国を建設する。このような中国北部にいたトルコ系民族が、ユーラシアの西のバルカン半島に及ぶまでの移動、拡張を見せていることにも、世界史上のスケールの大きな民族移動の一例なので、十分注意しておこう。
モンゴル民族の拡張
トルコ系に次いでモンゴル高原で活動していた遊牧民であるモンゴル人が13世紀初めに急速に発展し、チンギス=ハンが大帝国を建国、中国本土、さらには朝鮮や東南アジアのアジア各地、北インド、西アジア、そしてロシアから東ヨーロッパまで遠征軍を送った。このモンゴルの遠征は、通商の利益を求めてという側面が強いが、中国本土の元朝以外は征服地に定住していったので、広く解釈すれば民族移動ということができる。イル=ハン国(フラグ=ウルス)、キプチャク=ハン国(ジョチ=ウルス)、チャガタイ=ハン国などはモンゴル人がいずれもその地のイラン人、ロシア人、トルコ人などと同化して行き、その地の生活をそのまま継続させ、税を徴収するという形態を採った。それと共にこれらのモンゴル系国家はいずれもイスラーム化していった。近世・近代の民族移動
15世紀の大航海時代は、ポルトガル・スペイン、さらに続いてイギリス人やフランス人、ドイツ人などのヨーロッパ諸国がアジア・アフリカ・新大陸に次々と植民地を建設していった。植民地に移住したヨーロッパ人は民族移動と言われるような規模ではなかったが、植民地支配者として各地に拠点を建設していった。特にアメリカ新大陸やオセアニア地域は広大な土地を求めて、イギリス人を初めとする白人が移住していった。ラテンアメリカではスペイン人が、北米大陸ではイギリス人やフランス人が入植し、やがて彼らは独立の主体となって行き、これらの白人は現在に至るまで支配的地位を占めている。アフリカにおいてはオランダ系移民であるブール人(現在はアフリカーナーと言われることが多い)が黒人の土地を奪い、定住していった。
ラテンアメリカや北米大陸で白人プランテーションが建設されるようになると、当初はインディオが労働力とされていたが、その人口が減少すると、その代わりとしてアフリカの黒人が奴隷として拉致されていった。この18世紀の黒人奴隷貿易によってアフリカから新大陸に渡った人々は本人の意志に基づかない、強制された移動であり、民族移動という概念にはあてはまらないが、組織的に多数の人間の移動が大陸間で行われたという歴史的事実は重要である。
また近代に入って、産業革命期になると、労働者の国境と大陸を超えた移動が行われるようになる。特にアメリカ大陸へのアイルランド人の移民や、その他の移民や新移民、クーリーといわれる中国人などアジアからの大量の移民は形を変えた民族移動という側面もある。アジアにおいては、中国人の海外移住である南洋華僑、インド人の主として東南アジアへの移住である印僑なども近代における民族移動の形態ということができる。日本人はハワイを初めとしてアメリカ大陸へ、さらにはブラジルなどへ移民しており、20世紀前半においては国家的な施策として満洲への移民が進められたことも広く捉えれば民族移動の一例であり、日本人も例外ではなかった。