ジンバブエ、ジンバブエ遺跡、グレートジンバブエ遺跡、大ジンバブエ遺跡
アフリカ東海岸の現在のジンバブエ共和国にある、巨大な石造建築物を中心とした遺跡。14世紀に最盛期を迎えた農耕・牧畜社会が金や象牙などを産し、インド洋交易も行っていた高度な黒人国家として繁栄していたことを示している。15世紀に衰退し、代わってモノモタパ王国などが生まれた。19世紀末、植民地化が進む中でその存在が知られるようになった。1980年に黒人がローデシアの白人支配を倒したときに国名をこの遺跡名からとってジンバブエ共和国の国名が生まれた。
東南アフリカのザンベジ川とリンポポ川の間にひろがる高原地帯で、1868年、アメリカの狩猟家が偶然、森林の中に巨大な石積の壁を持つ構築物と近くの多くの住居跡を含む廃墟を発見した。それがジンバブエ遺跡であり、おそらく王宮と思われる巨大な石造建築に囲まれた場所からは鉄器や金細工の他に、中国の陶器、ペルシアの陶器、アラビアのガラス、インドのビーズなど多数出土した。ジンバブエとは現地のショナ人言葉で「石の家」を意味しており、この遺跡はグレートジンバブエ、大ジンバブエ遺跡などとも言われている。ザンベジ川とリンポポ川にはさまれた、現在のジンバブエ共和国には、グレートジンバブエ遺跡以外にも時間的、地域的に幅広く遺跡が広がっており、長い歴史と幾つかの国家が存在した。「ジンバブエ」は広い意味ではそれらを包括した呼び名であるが、狭い意味ではグレートジンバブエ遺跡を指すこともある。また現在では「ジンバブエ共和国」を指して用いられる場合もある。<以下、吉国恒雄『グレードジンバブウェ』1999 講談社現代新書/宮本正興+松田素二編『新書アフリカ史改訂版』2018 講談社現代新書による>
この国家は便宜上グレートジンバブエ王国と呼ばれているが、すでに伝承は失われ、またポルトガル人の進出前のことなので文献でも知られることはなく、専ら考古学によってその盛衰を知ることが出来るに過ぎないので、王の系譜や国家のしくみ、その成立から滅亡への事情を正確に知ることはできない。
注意 モノモタパ王国との関係 かつては、ジンバブエ遺跡はジンバブエからモザンビークにかけて、11から15世紀に栄えたモノモタパ王国の都であったという説明をされていた。現在もそのような記述が世界史教科書の一部にも見られる。しかし現在ではグレートジンバブエ遺跡を中心として栄えていた国家は14世紀ごろに最盛期を迎えており、15世紀以降にその国が衰退した後に現れた国家のひとつがモノモタパ王国であったとされるようになっており、ジンバブエ遺跡とモノモタパ王国の関係は否定されている。 → モノモタパ王国の項を参照。
繁栄の理由 グレートジンバブエに先行してリンポポ川渓谷に同じような石積みの家の集落を持つマプングブウェ遺跡があり、そこでは11~13世紀に東海岸のソファラを通じてイスラーム商人と交易し繁栄していたことが判っている。13世紀に乾燥化が進んだために低地にあったマプングブウェ国は急速に衰退し、かわってそこよりも北、ザンベジ川南側の高原の一角に現れたのがグレートジンバブエ国だった。その遺跡の位置から考えられることは、この地が金の産地とソファラの中間にあり、金のインド洋交易の面で有利であったこと、高原にあったことで乾燥化の影響を受けず、牛の飼育により適していたこと、またツェツェ蠅の猛威がない土地であったことなどであろう。さらに住居や都市の壁に使う花崗岩の石材が得やすかったことも考えられる。
グレートジンバブエ遺跡は、教科書などの写真にある円形の石造建造物(グレートエンクロージャー)がまず第一にあげられるが、それだけでなく北方の「丘の遺跡」と南方の「谷の遺跡」も重要である。丘の遺跡はアクロポリスともいわれ、王や支配者の政治的中心、「谷の遺跡」は下層民の住居址と考えられている。1986年に世界遺産に登録されている。
石造建築 グレートジンバブエの特徴である石の壁は一定の厚さと形を持っており、それは風化した花崗岩を槌でたたき割って煉瓦状にしたもので火で加熱した後に水で冷却するとわれやすい性質だった。このような建築資材を容易に手に入れらたことが、もっぱら泥と木と草で造っていた他のアフリカと異なる石を素材とする建築文化を生み出した。
最盛期の人口 遺跡の中心部には円形の石壁で囲んだ地域(支配者層の住居)があり、その周辺に半径2㎞ほどの範囲に小型の石の遺跡が分布し、その周辺に一般的な家屋が造られていた。最盛期の14世紀には家屋数約6000,人口約18000人を擁していたと推定される。この人口は人々がまばらに生活していた当時のアフリカ大陸の自然環境を考えれば、おどろくべき集住、都市の形成だった。<p.60>
グレートエンクロージャー 中央の長径約100m、短径約80m、1周240m、高さ11m、基部の厚さ6mに及ぶ楕円形の石壁で囲われたところはグレートエンクロージャーと呼ばれ、首長の家族など約50世帯の支配者級が住み、政治や宗教活動を行っていたと考えられる。その中からは鉄のスプーンや東アフリカのキルワで鋳造された金貨が出土し首長の権威を示している。また「壁の内」地区ではたくさんの牛骨や、牛の土偶、牛のレリーフをもつ石盆 などが見つかっている。→ グーグルマップで見るグレートエンクロージャー ストリートビューで石壁の内部を観察することが出来ます。
交易の広さを示す出土品 また、鍬やゴングなどの鉄製品、大量の鉄屑、中央アフリカで広く使われた十字形の銅を作るための石の鋳型、儀礼用の槍先などの各種銅製品、綿布の生産のための石錘、さらには金細工、鉄製スプーン、ガラスビーズ、明代の中国製の陶器、キルワ金貨が出土し ていることが注目さ れる。これらはポルトガルが侵出する前の、イスラーム商人が活動したインド洋交易の活況を示すものでもあった。
覇権国家グレートジンバブエ
セシル=ローズのローデシア建設 ケープ植民地を統治していた政治家セシル=ローズもリンポポ川以北の地に興味をもち、私財を投じて奥地(マショナランド)を占領、やがて自分の名を冠してローデシアという国を造った。彼はダイヤモンドと金の獲得と同時に、イギリス帝国主義の「ケープからカイロへ」とうアフリカ縦断政策の一環としてローデシアの建設にあたった。
西アジア文明起源説 セシル=ローズは、ローデシアの建設を正当化するために、この地は黒人以前に旧約聖書に伝えられる文明があったことにする必要を意識した。そのために動員された学者は、かつてのマウフの説を補強するような、ジンバブエ遺跡の西アジア起源説を盛んに吹聴した。彼らの「研究」によればグレートジンバブエは古代ユダヤ人やフェニキア人が建設し、アラビア商人との交易で繁栄し、バントゥー(黒人)が入りこんだことによって衰退した、というものであった。それはローデシアの白人植民地支配にとって都合のよい「歴史」とされた。
アフリカ人建設説の反論 しかし考古学者の中(女性考古学者ケイトン・トンプソンなど)には、遺跡は明の陶器が出土することから紀元前の聖書時代ではあり得ないこと、その建築原理は方形や直線がなく円形や曲線であり、西アジアやイスラーム建築とは全く異なるアフリカ的原理が見られることなどの疑問を提出し、論争は長く続いた。<p.92>
遺跡名を国名にした意味 現在はグレートジンバブエ遺跡は黒人(バントゥー系ショナ人)が造ったものというのが常識になっているが、それが確定したのは、ローデシア白人支配が終わり黒人政権が生まれた1980年という、たかだか40数年前のことだったのだ。そして主権を取り戻した黒人が自分たちの国名に「ジンバブエ」という遺跡名をつけたことの深い意味もそこにあったことを知っておこう。
アフリカ黒人の石造建築群を有する文化
発見された当初は、この文化の伝承は失われていたので、巨大な構築物をもつ高度な文明がアフリカにあったはずはない、という思い込みから、フェニキア人が南下して造ったのであろう、などと西アジアの文明の広がりを示すものと理解されていた。19世紀末にイギリス殖民地ローデシアに含まれると、ダイヤモンドや金鉱の探索と並んで古代文明の遺品を求める人々によって掘り返され、荒廃した。ようやく1980年代以降の考古学研究・調査が進んだ結果、この遺跡は13~15世紀ごろに栄えたバントゥー語系のショナ人がつくった国家の一つで、東海岸のスワヒリ語圏と接しインド洋交易を行っており、高度な文明をもつ黒人国家であったことが判ってきた。この国家は便宜上グレートジンバブエ王国と呼ばれているが、すでに伝承は失われ、またポルトガル人の進出前のことなので文献でも知られることはなく、専ら考古学によってその盛衰を知ることが出来るに過ぎないので、王の系譜や国家のしくみ、その成立から滅亡への事情を正確に知ることはできない。
注意 モノモタパ王国との関係 かつては、ジンバブエ遺跡はジンバブエからモザンビークにかけて、11から15世紀に栄えたモノモタパ王国の都であったという説明をされていた。現在もそのような記述が世界史教科書の一部にも見られる。しかし現在ではグレートジンバブエ遺跡を中心として栄えていた国家は14世紀ごろに最盛期を迎えており、15世紀以降にその国が衰退した後に現れた国家のひとつがモノモタパ王国であったとされるようになっており、ジンバブエ遺跡とモノモタパ王国の関係は否定されている。 → モノモタパ王国の項を参照。
繁栄の理由 グレートジンバブエに先行してリンポポ川渓谷に同じような石積みの家の集落を持つマプングブウェ遺跡があり、そこでは11~13世紀に東海岸のソファラを通じてイスラーム商人と交易し繁栄していたことが判っている。13世紀に乾燥化が進んだために低地にあったマプングブウェ国は急速に衰退し、かわってそこよりも北、ザンベジ川南側の高原の一角に現れたのがグレートジンバブエ国だった。その遺跡の位置から考えられることは、この地が金の産地とソファラの中間にあり、金のインド洋交易の面で有利であったこと、高原にあったことで乾燥化の影響を受けず、牛の飼育により適していたこと、またツェツェ蠅の猛威がない土地であったことなどであろう。さらに住居や都市の壁に使う花崗岩の石材が得やすかったことも考えられる。
グレートジンバブエ遺跡の概要
グレートエンクロージャー GoogleMap
北にスライドしていくと遺跡の中心の丘が見える。
石造建築 グレートジンバブエの特徴である石の壁は一定の厚さと形を持っており、それは風化した花崗岩を槌でたたき割って煉瓦状にしたもので火で加熱した後に水で冷却するとわれやすい性質だった。このような建築資材を容易に手に入れらたことが、もっぱら泥と木と草で造っていた他のアフリカと異なる石を素材とする建築文化を生み出した。
最盛期の人口 遺跡の中心部には円形の石壁で囲んだ地域(支配者層の住居)があり、その周辺に半径2㎞ほどの範囲に小型の石の遺跡が分布し、その周辺に一般的な家屋が造られていた。最盛期の14世紀には家屋数約6000,人口約18000人を擁していたと推定される。この人口は人々がまばらに生活していた当時のアフリカ大陸の自然環境を考えれば、おどろくべき集住、都市の形成だった。<p.60>
グレートエンクロージャー 中央の長径約100m、短径約80m、1周240m、高さ11m、基部の厚さ6mに及ぶ楕円形の石壁で囲われたところはグレートエンクロージャーと呼ばれ、首長の家族など約50世帯の支配者級が住み、政治や宗教活動を行っていたと考えられる。その中からは鉄のスプーンや東アフリカのキルワで鋳造された金貨が出土し首長の権威を示している。また「壁の内」地区ではたくさんの牛骨や、牛の土偶、牛のレリーフをもつ石盆 などが見つかっている。→ グーグルマップで見るグレートエンクロージャー ストリートビューで石壁の内部を観察することが出来ます。
交易の広さを示す出土品 また、鍬やゴングなどの鉄製品、大量の鉄屑、中央アフリカで広く使われた十字形の銅を作るための石の鋳型、儀礼用の槍先などの各種銅製品、綿布の生産のための石錘、さらには金細工、鉄製スプーン、ガラスビーズ、明代の中国製の陶器、キルワ金貨が出土し ていることが注目さ れる。これらはポルトガルが侵出する前の、イスラーム商人が活動したインド洋交易の活況を示すものでもあった。
覇権国家グレートジンバブエ
(引用)グレートジンバブウェは、首都の偉容のみならず、その影響力、勢力圏の広域性においても驚かされるものが ある。一方で、南のリンポポ川中流域世界とくに豹の丘伝統と深いかかわりをもちながらも、また同時に、北の中央アフリカにつながるザンベジ川下流域世界とも交渉をもってい た。その頃までにザンベジ 川中流とその北の地域では十字形をした銅が交換手段として広く流布し ていた。一種の通貨であるが、グレートジンバブウェからその製造のための滑石製 鋳型が出ている。また、出土品の一つである二股の鉄製ゴングは、遠く中央アフリカ、西アフリカにおいて神聖王のシンボルとされるもので ある。(中略)石の家遺跡の分布からみても、このことは明らかである。グレートジンバブウェと同じタイプの石の家遺跡は、地域一帯でおよそ二〇〇ほどあり、南はリンポポ 川中 流域から北は ザンベジ 川下流域まで、西はカラハリ砂漠の東端から東はインド洋の海岸平野まで、一辺数百キロメートル四方の広大な地域に散在する。ザンベジ・リンポポ川地域にいた有力者、支配者はことごとく、石の壁を自分の権威の表象と考え、競ってグレートジンバブウェを模し た石の家を築いたと解しても、さして間違いではなさそうである。<吉國恒雄『グレートジンバブウェ』1999 講談社現代新書 p.62 Kindle 版>
Episode ジンバブエ遺跡への「古代の坂」
東南アフリカでは首長を伺うときは西から参るべし、とうい考えがひろく見られる。グレートジンバブエでも中央の丘に向かう道は太陽の沈む方向に向かって、長い坂になっている。今日遺跡を訪ねる場合も、丘の西側の入場門への道は、足腰の軟弱なツーリストのために造られた新しい道ではなく、往時の訪問者と同じ方向から「古代の坂」をとるべきであろう。傾斜が急な小径であるが、かつて首長や身分の高い人間が使ったのはこれである。坂を登りきると踊り場があり、ここから麓はもとより、遠くインド洋交易ルートであったムトゥリクウェ川の方までを遠望できる。背後に控える大きな石の壁が「西エンクロージャー」の外壁である。入口は横木の渡されたされた低いトンネル状になっており、這うようにして中にはいる。遺跡のどの通路も狭く、人の通行に対して無頓着あるいは非寛容である。<p.69>グレートジンバブエの衰退
グレートジンバブエ遺跡からはインド、ペルシア、中国製遺品はおよそ1500年前後までのもので終わっているので、そのころ衰退が明確になった。このころはちょうどポルトガル人が東南アフリカに到来した時機であるが、ポルトガル人の記録にはわずかにジンバブエに関する不確かな記事が一例あるのみで、ほとんど知られていない。グレートジンバブエの衰退の原因の具体的な理由はわからないが、資源環境の変化による農耕・牧畜の衰退、インド洋交易の拠点が東海岸の港ソファラから北に移ったことで、内陸の金との交易ルートも北のザンベジ川流域に移ったこと、などが考えられる。ザンベジ川・リンポポ川にはさまれた世界でグレートジンバブエの後継者として現れたのが、モノモタパ国(ムニュムタパ国)とトルワ国であった。<p.95-98>西欧人のジンバブエ「発見」
西欧諸国による植民地獲得、資源獲得競争が本格的になった1860年代、南アフリカ内陸のザンベジ川・リンポポ川流域への関心も高まった。この地域の情報はアフリカ東海岸に侵出したポルトガル人の15世紀ごろの古い情報により、モノモタパ王国という黄金郷がある、といった漠然としたものに過ぎず、グレートジンバブエ遺跡の存在はまったく知られていなかった。1871年、ドイツ人のマウフは現地人の古老から奥地に巨大な石の廃墟があるという話を聞きいて探検に乗りだし、遺跡の発見者となった。しかしマウフはこの遺跡は旧約聖書にある、ソロモン王に贈り物をしたシバの女王の都に関係があると考えた。この情報はおりしもダイヤモンドブームで沸き立っていた南アフリカで大きな反響を呼び、多くの白人が一攫千金を求めてやってきては遺跡を掘り返した。遺跡は無秩序な発掘にさらされ、出土品は財宝の一部として持ち帰られた。セシル=ローズのローデシア建設 ケープ植民地を統治していた政治家セシル=ローズもリンポポ川以北の地に興味をもち、私財を投じて奥地(マショナランド)を占領、やがて自分の名を冠してローデシアという国を造った。彼はダイヤモンドと金の獲得と同時に、イギリス帝国主義の「ケープからカイロへ」とうアフリカ縦断政策の一環としてローデシアの建設にあたった。
西アジア文明起源説 セシル=ローズは、ローデシアの建設を正当化するために、この地は黒人以前に旧約聖書に伝えられる文明があったことにする必要を意識した。そのために動員された学者は、かつてのマウフの説を補強するような、ジンバブエ遺跡の西アジア起源説を盛んに吹聴した。彼らの「研究」によればグレートジンバブエは古代ユダヤ人やフェニキア人が建設し、アラビア商人との交易で繁栄し、バントゥー(黒人)が入りこんだことによって衰退した、というものであった。それはローデシアの白人植民地支配にとって都合のよい「歴史」とされた。
アフリカ人建設説の反論 しかし考古学者の中(女性考古学者ケイトン・トンプソンなど)には、遺跡は明の陶器が出土することから紀元前の聖書時代ではあり得ないこと、その建築原理は方形や直線がなく円形や曲線であり、西アジアやイスラーム建築とは全く異なるアフリカ的原理が見られることなどの疑問を提出し、論争は長く続いた。<p.92>
Episode あってはならない黒人王国
(引用) アフリカに偉大な文明か存在していたことの歴史的裏づけなど、行ってはならなかった。なぜなら、それは混乱を招くと同時に、既存の体制を危うくするものだったからである。14世紀のグレートージンバブエのショーナ宮殿かそのいい例であった。白人の探検家か初めてこの宮殿を見たとき、彼らにはそれかアフリカ人によって建てられたものと思えなかった。ソロモン王の鉱脈という説を唱える人もあれば、シバの女王かそこに住んでいたという人もあり、フェニキア人の居住地だったという説も現れた。同じように、1910年、ナイジェリアで七つの壮大なテープコック彫刻か発見されたとき、それをめぐってふたつの説か登場した。ひとつは、はるか昔に消滅したギリシア人の入植地だという説。ふたつめは、はるか昔に消えたアトランティスの遺跡だという説である。
このように、20世紀半ばまで、アフリカの歴史は、まるで人類史の一部ではないかのように、完全に白紙の状態に放置されていた。こうした理由から、アフリカ人の遺産の発掘は、私たちの時代にとっての大いなる文化的な冒険のひとつとなっている。<クリス・ブレイジャ/伊藤茂訳『世界史の瞬間』2004 青土社 p.122>
遺跡研究の政治問題化
第二次世界大戦後の科学的な考古学研究の進歩によって、次第にグレートジンバブエ遺跡はアフリカ人が建設したことを明らかになっていったが、白人支配の続くローデシア政府はその学説の発表を検閲して規制し、ジンバブエ遺跡はむしろ白人支配を正当化する文明遺跡として世界的に宣伝した。反発したアフリカ民族主義を掲げる黒人は1961年、ジンバブエ・アフリカ人民同盟(ZAPU)というはじめてジンバブエを冠した政党を結成した。こうしてグレートジンバブエ遺跡の研究そのものが、その文明の主体は白人だったのか、黒人だったのか、という問をめぐり先鋭な政治問題化したのだった。<p.91-95>遺跡名を国名にした意味 現在はグレートジンバブエ遺跡は黒人(バントゥー系ショナ人)が造ったものというのが常識になっているが、それが確定したのは、ローデシア白人支配が終わり黒人政権が生まれた1980年という、たかだか40数年前のことだったのだ。そして主権を取り戻した黒人が自分たちの国名に「ジンバブエ」という遺跡名をつけたことの深い意味もそこにあったことを知っておこう。
ローデシアが国号をジンバブエに
イギリスのケープ植民地首相セシル=ローズによってイギリスの植民地に編入され、ローデシアと名付けられたこの地は、1962年に北ローデシアがザンビアなどとして独立、南ローデシアは1965年に白人政権が一方的にローデシア独立宣言を行った。このローデシアで白人支配に反発した多数派の黒人が立ち上がり内戦となった。ようやく、1980年には黒人政権が成立して、白人植民地主義者のローズに由来する国名を破棄し、ジンバブエ遺跡にちなみ、ジンバブエ共和国に改めた。<2023/3/2改訂>