クローヴィスの改宗
496年、フランク王クローヴィスがアタナシウス派に改宗。これによってフランク王国とローマ教会が結びつき、ヨーロッパ世界の形成の出発点となった。
クローヴィスの洗礼
2007 センター試験より
ゲルマン人の部族の多くは、すでにキリスト教の異端であるアリウス派を信仰していたが、フランク人は依然として古くからの多神教信仰のままであった。そのフランクを統一したフランク王国メロヴィング朝の王クローヴィスが、496年、アタナシウス派の三位一体説を正統とするローマ教会のランスの大司教の手で洗礼を受け、一足飛びにアタナシウス派キリスト教に改宗した。3000人のフランク人が王と同じく洗礼を受けたという。
その理由は、王妃がすでに熱心なアタナシウス派の信者で、彼女に説得されたという説などがあるが不明である。フランク王国内のローマ系文化人を取り込むことが目的であったとも考えられる。いずれにせよ、この「クローヴィスの改宗」によって、フランク王国はローマ教会と結んで、異端である他のゲルマン諸国に対する「聖戦」を行い、国内のローマ人との融合(同じローマ教会の信者同士となり通婚出来るようになった)を実現することが出来た。
クローヴィスの改宗の段階では、ローマ教会とフランク王国の関係は強固なものとは言えなかったが、後に、756年のピピンの寄進や800年のカールの戴冠と続く中でフランク王国という後ろ盾をえることとなったローマ教会は、ローマ教皇を頂点とした聖職者のヒエラルキアを西ヨーロッパ全域に巡らし、自ら「普遍的」を意味する「カトリック」を掲げて、ローマ=カトリック教会として態勢を確立していくこととなる。
その理由は、王妃がすでに熱心なアタナシウス派の信者で、彼女に説得されたという説などがあるが不明である。フランク王国内のローマ系文化人を取り込むことが目的であったとも考えられる。いずれにせよ、この「クローヴィスの改宗」によって、フランク王国はローマ教会と結んで、異端である他のゲルマン諸国に対する「聖戦」を行い、国内のローマ人との融合(同じローマ教会の信者同士となり通婚出来るようになった)を実現することが出来た。
クローヴィス改宗後のキリスト教世界
キリスト教は4世紀初めにローマ帝国の国教となったが、帝国が東西に分裂するに伴い、キリスト教の首位の座をめぐって東のコンスタンティノープル教会と西のローマ教会が教会首座を巡って対立することとなった。その後476年に西ローマ帝国が滅亡したため、ローマ教会はその政治的後ろ盾を失い、東に対して劣勢に立たされていた。そこでローマ教会はまだキリスト教化していないフランク王国に目を付け、クローヴィスに接近、その改宗に成功し、新たな保護者として迎えることとした。クローヴィスの改宗の段階では、ローマ教会とフランク王国の関係は強固なものとは言えなかったが、後に、756年のピピンの寄進や800年のカールの戴冠と続く中でフランク王国という後ろ盾をえることとなったローマ教会は、ローマ教皇を頂点とした聖職者のヒエラルキアを西ヨーロッパ全域に巡らし、自ら「普遍的」を意味する「カトリック」を掲げて、ローマ=カトリック教会として態勢を確立していくこととなる。
フランク王国にとってのクローヴィスの改宗
(引用)ゲルマン人の移住者はガロ・ローマ人(ガリアのローマ系)の住民に対して5%程度の数にすぎなかったといわれ、そのため、ゲルマン人の王が部族の従士たちをこえて住民全体に支配を拡げるには、統治の知識と経験を持つ既存のガロ・ローマ貴族の協力を得て、その組織を利用することが不可欠だった。とくに、貴族は主要都市の司教職を占め、この教会機構が行政機構以上に地方生活に大きな影響力をもっているため、ゲルマン人の王たちにとっては、キリスト教徒の関係が重要な意味を持った。・・・・おそらく496年、クローヴィスはランスの司教レミ(レミギウス)の強いすすめで洗礼を受けて、従士とともにアタナシウス派キリスト教に改宗し、ゲルマンの部族王の中で唯一のカトリックの王となった。教会の権威と貴族の後押しを得たクローヴィスは、異端からの解放という正統性をもって征服を容易にすすめることができたのである。<柴田三千雄『フランス史10講』2006 岩波新書 p.10-11>
Episode フランスは「カトリック教会の長女」
(引用)フランスは今でも、クローヴィスの洗礼を建国の日と見なしていて、1996年には建国1500年祭があった。といっても、これは、あくまでもカトリック国としてのアイデンティティであり、フランス革命以来共和主義(宗教や血統でなく、同じ土地に住むものが平等な条件で国家を成すという考え方)を旗印にしたフランスには不適当だという論議も多くなされた。しかしフランスはこの洗礼をもって今も「カトリック教会の長女」(フランスという国名は女性名詞)という立場を自覚している。ヨハネ=パウロ2世もフランスに向かってそれを強調している。竹下節子『ローマ法王』2005 中公文庫 p.83>