クローヴィス
フランク人を統合して、481年にフランク王国のメロヴィング朝を創始した。また496年にはカトリックに改宗し、ヨーロッパ世界の出発点となった。
現在のフランス北西部に入ったゲルマン人の一派のフランク人をはじめて統一し、481年にフランク王国を築き、初代の国王としてメロヴィング朝を創始した。486年、ソアソンに残っていたローマ人の拠点を攻略してガリアからローマ人を最終的に追い出し、北ガリアの地を統一した。
当時、キリスト教ではいずれも正統教義を掲げているローマ教会とコンスタンティノープル教会が教会の首座権をめぐって対立していた。クローヴィスがアタナシウス派に改宗して洗礼を受けたことによって、ローマ教会はフランク王国という力をその後ろ盾とするという重要な意味をもっていた。このクローヴィスの改宗によって、フランク王国とローマ教会が初めて結びつきが始まり、ローマ教会は西ヨーロッパに確固とした足場をもつローマ=カトリック教会へと成長することが可能となった。
508年、勝利の帰還の途上、トゥールにおいて、クローヴィスは東ローマ皇帝アナスタシウスからコンスルの称号を受けた。これは、のちのフランク王国のカールの戴冠に符合する動きであった。
アタナシウス派への改宗
クローヴィスは、496年、アラマン人(スイス方面にいたゲルマン人の一派)を破ってアルプス方面に進出後、アタナシウス派に改宗した。他の多くのゲルマン人部族がキリスト教の異端とされていたアリウス派を信仰しているなかで、土俗的な部族信仰にとどまっていたフランク族が、はじめて正統とされる三位一体説の信仰を受け入れた。当時、キリスト教ではいずれも正統教義を掲げているローマ教会とコンスタンティノープル教会が教会の首座権をめぐって対立していた。クローヴィスがアタナシウス派に改宗して洗礼を受けたことによって、ローマ教会はフランク王国という力をその後ろ盾とするという重要な意味をもっていた。このクローヴィスの改宗によって、フランク王国とローマ教会が初めて結びつきが始まり、ローマ教会は西ヨーロッパに確固とした足場をもつローマ=カトリック教会へと成長することが可能となった。
西ゴート王国との対抗
クローヴィスの受洗については次のような説明もある。(引用)497年、クローヴィスは対西ゴート王国作戦を開始し、トゥールを押さえた。トゥール司教ヘルペトゥスはクローヴィスを歓迎し、クローヴィスは彼にカトリック受洗を約束した。翌年、ランスにおいて約束が実行された。クローヴィスの思惑は明らかだった。トゥール司教、ひいては南ガリアの司教たちの目論見も容易に推理できる。「カトリックの王」の名をもって西ゴートを征討する。ガリアに一元的統制を期待する。両者の思惑は一致していた。<堀越孝一『中世ヨーロッパの歴史』初刊1977 再刊 2006 講談社学術文庫 p.60>この説明ではクローヴィスの受洗は498年となる(同書巻末の年表も同じ)。また、西ゴート王国のアラリック2世もカトリック改宗を考えていたが、クローヴィスに先手を取られたという。結局、507年、アラリック2世はクローヴィスと戦って敗死し、西ゴート王国はピレネー山脈の南に限定され、アキテーヌなど南ガリアはフランク王国に併合された。
508年、勝利の帰還の途上、トゥールにおいて、クローヴィスは東ローマ皇帝アナスタシウスからコンスルの称号を受けた。これは、のちのフランク王国のカールの戴冠に符合する動きであった。
クローヴィス後のメロヴィング朝
クローヴィスは511年に死去、その後のフランク王国は、ゲルマン社会の伝統の分割相続によって分裂し、三つの分国が生まれて争うという内乱がはじまる。その中から宮宰(マヨル=ドムス)となったカロリング家が実権を握ることなる。732年にはカロリング家のカール=マルテルが、イスラームのヨーロッパ侵入をトゥール・ポワティエ間の戦いで撃退し、キリスト教世界を守ったことで名声を高め、その子のピピンがメロヴィング朝の王を廃してカロリング朝を創始する。