ノルマン=コンクェスト/バイユー・タペストリー
1066年のノルマンディー公ウィリアムによるイングランド征服のこと。ノルマン朝が成立した。このときのヘースティングスの戦いの様子はバイユー・タペストリーに描かれ、伝えられている。
1066年、ノルマンディー公ウィリアムがドーバー海峡を超えてイングランド王国に侵入し、ヘースティングスの戦いでアングロ=サクソン王朝ハロルドの軍を破り、その年クリスマスにイギリス王として即位、ノルマン朝を開いたこと。ウィリアム1世は各地で抵抗するアングロ=サクソン系の貴族を服属させ、イングランドを完全に統一し、強固な征服王朝をうち立てた。それがノルマン朝であり、1154年まで続く。 → イギリス(2)
エドワード証聖王(懺悔王 the Confessor)の宮廷には母のエマがノルマンディー王女だったので、多数のノルマンディ人が貴族・役人、聖職者となっていた。またノルマンディー商人も入り込んでいた。それに対してアングロ=サクソン人の貴族たちは不満を持つようになっていった。
それに異議を唱えたのが、ノルマンディ公ギョームであった。彼は一般に英語表記でノルマンディー公ウィリアムと言われるが、フランス語ではギョームであり、彼自身もフランス語を話すノルマン人であった。ギョームはエマの甥の子であったことから、イングランド王位継承権があると主張していた。また、ハロルドがカンタベリー大司教に自派の人物を据えたことに対して異議を唱えるローマ教会(後の教皇グレゴリウス7世)とも結びついていた。
ギョームは封建家臣団を動員する他、傭兵を雇い入れ、騎馬部隊を編成し、1066年10月14日のヘースティングスの戦いでハロルドの軍に勝利をおさめ、同年12月25日、ウェストミンスター教会でイングランド王ウィリアム1世として王位に就いた。これによってイングランド(イギリス)のノルマン朝が成立した。
驚かされるのは、ヘースティングスの戦いでのイングランドの歩兵とノルマンの騎兵の戦闘が詳細に描かれているだけではなく、ノルマン軍がヴァイキング風の船を建造し、海をおし渡るシーンの迫力である。ノルマン軍がヴァイキングの子孫であることを如実に示している。考えてみればこのノルマン=コンクェスト以来、英仏海峡をおし渡った軍隊はいない。スペインのフェリペ2世も、ナポレオンも、そしてヒトラーも成し遂げられなかった。ノルマン=コンクェストを最後に、ヨーロッパにおける民族の大規模な移動の時代は終わり、この後、イギリスは海峡に守られて独自の重層的文化を形成していくこととなる。
しかし、コルティッツは連合軍とレジスタンス兵が迫るなかで、そんな余裕はないとして命令に従わず、またパリ破壊計画も独断で中止てしまった。このときコルティッツを説得したのは中立国スウェーデンのパリ駐在領事ノルドリックだった。このパリ解放にまつわる話は、1966年の『パリは燃えているか』と2014年の『パリよ、永遠に』という映画で繰り返し出てくる。後者ではヒトラーはこのとき、バイユー・タペストリーとレンブラント、カラバッジョ(イタリアルネサンス後期の画家)の作品も奪えと指示したが、ダ=ヴィンチの「モナリザ」はいらない、と言ったという。
ノルマン征服の前提
イングランド王国のアルフレッド大王の曾孫エドガー王(位959~975)はデーン人と共存しながら次第にデーン人の居住地(デーンロー地方)を併合していった。その子のエセルレッドの時期には再びデーン人の活動が活発となり、王は対抗上、ノルマンディーの王女エマを迎えた。ここから、イングランドとノルマンディーの関係が生まれた。デーン人のクヌートが1016年、イングランド王位を奪ったが、1036年に死去するとその北海帝国は分解し、イングランド王にはエセルレッドとエマの間に生まれていたエドワードが即位し、アングロ=サクソン系の王位が復活した。エドワード証聖王(懺悔王 the Confessor)の宮廷には母のエマがノルマンディー王女だったので、多数のノルマンディ人が貴族・役人、聖職者となっていた。またノルマンディー商人も入り込んでいた。それに対してアングロ=サクソン人の貴族たちは不満を持つようになっていった。
ノルマン=コンクェスト
1066年にエドワードが後継者を指名せずに死去すると、王位を自称するものが複数で争い、そのうちの一人、大貴族ゴドウィン伯のハロルドが国王を名乗ることとなった。それに異議を唱えたのが、ノルマンディ公ギョームであった。彼は一般に英語表記でノルマンディー公ウィリアムと言われるが、フランス語ではギョームであり、彼自身もフランス語を話すノルマン人であった。ギョームはエマの甥の子であったことから、イングランド王位継承権があると主張していた。また、ハロルドがカンタベリー大司教に自派の人物を据えたことに対して異議を唱えるローマ教会(後の教皇グレゴリウス7世)とも結びついていた。
ギョームは封建家臣団を動員する他、傭兵を雇い入れ、騎馬部隊を編成し、1066年10月14日のヘースティングスの戦いでハロルドの軍に勝利をおさめ、同年12月25日、ウェストミンスター教会でイングランド王ウィリアム1世として王位に就いた。これによってイングランド(イギリス)のノルマン朝が成立した。
バイユー=タペストリー
このノルマンディー公ウイリアムのイングランド征服におけるヘイスティングスの戦いは、フランスのバイユに残されているバイユー=タペストリーに鮮やかに記録されている。 → 外部サイトバイユー=タペストリー驚かされるのは、ヘースティングスの戦いでのイングランドの歩兵とノルマンの騎兵の戦闘が詳細に描かれているだけではなく、ノルマン軍がヴァイキング風の船を建造し、海をおし渡るシーンの迫力である。ノルマン軍がヴァイキングの子孫であることを如実に示している。考えてみればこのノルマン=コンクェスト以来、英仏海峡をおし渡った軍隊はいない。スペインのフェリペ2世も、ナポレオンも、そしてヒトラーも成し遂げられなかった。ノルマン=コンクェストを最後に、ヨーロッパにおける民族の大規模な移動の時代は終わり、この後、イギリスは海峡に守られて独自の重層的文化を形成していくこととなる。
バイユー=タペストリ 船の建造にあたるノルマン軍
バイユータペストリ 船で馬を運ぶ
Episode ヒトラー、「バイユー・タペストリー」奪取をねらう
1944年6月6日、連合軍がノルマンディーに上陸、さらに8月にはパリでレジスタンス組織が公然と反ドイツの攻勢に出た。ヒトラーはパリを占領しているドイツ軍司令官コルティッツ大将にレジスタンスを押さえるためパリを破壊せよ、と命令した。破壊の対象にはエッフェル塔やルーブル美術館も含まれていたが、ヒトラーはルーブルから事前に「バイユー・タペストリー」を奪い、ドイツに送れ、とも指示した。ヒトラーはついに実行できなかったイギリス征服の思いを、ノルマン人が成し遂げた歴史を伝えるバイユー・タペストリーを我が物にすることで、果たそうとしたのだろうか。しかし、コルティッツは連合軍とレジスタンス兵が迫るなかで、そんな余裕はないとして命令に従わず、またパリ破壊計画も独断で中止てしまった。このときコルティッツを説得したのは中立国スウェーデンのパリ駐在領事ノルドリックだった。このパリ解放にまつわる話は、1966年の『パリは燃えているか』と2014年の『パリよ、永遠に』という映画で繰り返し出てくる。後者ではヒトラーはこのとき、バイユー・タペストリーとレンブラント、カラバッジョ(イタリアルネサンス後期の画家)の作品も奪えと指示したが、ダ=ヴィンチの「モナリザ」はいらない、と言ったという。
NewS 「バイユー・タペストリー」複製、折り返し点に
イギリスに移り住んで20年以上になるスウェーデン生まれのミア・ハンソン(Mia Hansson)さん(47)は、世界的に有名な織物「バイユーのタペストリー(Bayeux Tapestry)」の複製を実物大で制作している。2016年から作業を開始し、このほどようやく折り返し点まできた。イングランドで約1000年前に制作されたと考えられているオリジナルは、2007年に国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界記憶遺産」に登録されており、ハンソンさんは「記憶に間違いがなければ、(使用する)毛糸は全部で約8000メートルです」と話す。完成の目標は今から5年後、着手した日からちょうど11年後となる2027年7月13日だそうだ。以下、AFPbbニュースで映像が紹介されているので、実物大の複製を見ることができる。写真だけではわからない、実物の大きさの迫力を知ることができます。 → AFPbbニュース 2022/3/20