グレゴリウス7世/グレゴリウス改革
11世紀後半のローマ教皇。改革派教皇として聖職売買と聖職者の妻帯の禁止などの「グレゴリウス改革」を行い、1077年にはドイツ国王(後に神聖ローマ皇帝)ハインリヒ4世と聖職叙任権をめぐって争い、「カノッサの屈辱」事件が起こった。グレゴリウス改革は聖職売買などの禁止と共に聖職者叙任権などの教皇権の確立を目指すもので、13世紀の教皇権全盛期への端緒となった。
グレゴリウス7世(在位1073~1085年)は11世紀後半、キリスト教の中の西方教会、ローマ=カトリック教会の最盛期をもたらしたローマ教皇。
クリュニー修道院で始まった修道院運動の影響を受け、聖職者の堕落を誡め、教皇の権威を回復するために教会の粛正を推進した。1075年に出された、この聖職売買と聖職者妻帯の禁止などの「グレゴリウス改革」といわれる一連の改革によって、西ヨーロッパのローマ=カトリック教会は次の時代に勢いを取り戻し、十字軍時代と教皇権の最盛期がもたらされることとなる。
グレゴリウス7世は改革の一環として、ドイツ王(神聖ローマ皇帝)を頂点とした世俗権力との聖職者叙任権を否定した。これに対して、ドイツ王(後に神聖ローマ皇帝)ハインリヒ4世は帝国教会政策(皇帝が聖職者の任免を通じて教会を支配する政策)を維持する立場から強く反発し、教皇と国王の間に叙任権闘争が持ち上がることとなった。ハインリヒ4世が聖職者叙任権否定を拒否して教皇の廃位に動くと、グレゴリウス7世は攻勢に出て1076年2月にハインリヒ4世を破門した。破門はキリスト教信者としての資格を失うことであり、王位を失うことにもなるのでハインリヒ4世は1077年1月、教皇に許しを請うため、グレゴリウス7世が滞在したカノッサ城を訪ね、雪中で3日3晩立ち続けるというカノッサの屈辱の事件が起きた。グレゴリウス7世はハインリヒ4世に対する破門を解き、教皇としての権威を保ったが、許されたハインリヒはドイツに戻って態勢を立て直して反撃に転じた。グレゴリウス7世は再び破門したが、ハインリヒ4世はこんどは軍を引きいてローマに入り、そのためグレゴリウス7世は追放された。ローマには対立教皇クレメンス3世が立ち、グレゴリウスはシチリア王に保護されてサレルノに逃れ、1085年にその地で没した。
ローマ教皇となったグレゴリウス7世は、次々と教会改革を断行した。とくに聖職売買(シモニア)と聖職者妻帯(ニコライスム)に対しては厳しく非難し、売買で得た聖職は無効とし、妻帯している聖職者を解任して追放した。一般に、この聖職者に対する厳格な姿勢は、クリュニー修道院の改革運動の影響を強く受けたためとされている。
グレゴリウス7世は、聖職売買・聖職者の妻帯などは、聖職者の地位が世俗の権力者である皇帝、国王、領主らに握られていることからくる弊害であると考えるようになり、明確にそれを否定することによって叙任権闘争へと突入していく。グレゴリウス改革は叙任権闘争と同義とされるようになる。
グレゴリウス7世の教皇教書 グレゴリウス7世が1075年に「ディクタトゥス・パパエ」(教皇教書)として示した全27条の条文は、叙任権闘争の中で明確に教皇の権力と職能を示している。その中の主要な条文に次のものがある。
1.ローマ教会はただ神のみによって創建された。
2.ローマ教皇のみが正しく普遍的といわれる。
3.教皇のみが司教を罷免し、あるいは復帰させることができる。
6.教皇によって破門された者と同居してはならない。
7.教皇のみが新たな法を定め、司教区を創設したり分割・統合することができる。
9.すべての君主は教皇の足に口づけすべきである。
12.教皇は皇帝を廃位することができる。
19.教皇は何人にも裁かれることはない。
22.ローマ教会は決して誤りを犯さなかったし、また聖書が証言しているように永久に誤りを犯さない。
23.教皇は教会法に従って叙階されている限り、・・・聖ペトロの功績によって神聖とされる。
<藤崎衛『ローマ教皇はなぜ特別な存在なのか』2023 世界史のリテラシー NHK出版p.41>
グレゴリウス7世については高校生が目にする用語集類では、山川出版社世界史用語集旧版(1983)や、三省堂必携世界史用語(1993)がはっきりと「クリュニー修道院出身」とし、山川の世界史人名辞典では「クリュニー修道院に入ってその改革運動の影響を強く受け」としている。一方で、山川用語集の現行版ではその記述は消えている。他の世界史辞典類も、現在ではクリュニー修道院出身とは言わずに、「その影響を受けている」としているのが多そうだ。ところが、新編西洋史辞典(京大西洋史辞典、創元社、1983)のクリュニー修道院の項には「ただし、グレゴリウス7世とクリュニー修道院との直接的関係については否定的見解が強い」とある。これは次にあげる堀米説のことを言っているのだろう。現在でも世界史の入試問題で、「11世紀にクリュニュー修道院出身で教会改革を行ったローマ教皇は誰か」と質問し、グレコリウス7世を正解とするのを見かけるが、あまりよい設問とは言えないこととなる。 → 下掲の藤沢道郎『物語イタリアの歴史』引用文を参照。
堀米説は「これまでのようにグレゴリウス改革を直接クリュニー改革から導きだそうとする考えは、否定されなければならない」と結論づけ、その理由の一つとして「秘蹟」の捉え方での両者が本質的に異なっていることをあげている。 → 秘蹟論争
カノッサの屈辱 1076年2月、グレゴリウス7世がハインリヒ4世を破門にするとともに国王廃位を宣言した。それに乗じてドイツ各地の諸侯が反乱を起こすに至り、ハインリヒ4世は窮地に陥った。やむなく翌1077年1月、ハインリヒ4世はグレゴリウス7世を滞在中のカノッサの城に訪ね、雪の中の佇んで許しを請うという「カノッサの屈辱」の事件がおこった。ハインリヒの破門は結局解かれたが、国王が教皇に許しを請うという屈辱を与えられたことが、教皇権が優位に立ったことを示す象徴的出来事となった。
皇帝側の反撃 ハインリヒはドイツ国内のカトリック領主をまとめるためにはやむなく屈服したのだったが、やがて態勢を立て直して、1082年にはドイツ軍を派遣して反撃、ローマ教皇庁のグレゴリウス7世を包囲した。その結果、グレゴリウス7世はローマに幽閉され、南イタリア・シチリアのノルマン公ロベルト=ギスカルド(ルッジェーロ2世の兄)の手を借りて脱出したものの、南イタリアのサレルノで失意のうちに亡くなる。
秘蹟とはカトリック教会で聖職者の手をへてイエス=キリストによって行われるもので、洗礼・堅振・聖体・悔悛・終油・叙品・婚姻の七つがあるが、ここで問題になるのは洗礼と叙品(聖職者に位階を授けること)の二つである。もし、聖職者が、その地位を金で買った聖職売買者であったためにその地位から追われた場合、彼がすでに行った洗礼と叙品などの秘蹟は、有効なのか、無効なのか、というのが「秘蹟論争」である。カトリック教会ではそれまでも異端として排除された聖職者がそれ以前に行った秘蹟をどうすればよいか、という長い論争があったのである。そしてその論争は、5世紀の初めにドナートゥスが不正な聖職者の行った秘蹟はそれ自体も無効であるという「主観主義(誰が秘蹟を与えたかを問題にする)」を主張したのに対し、アウグスティヌスは不正な聖職者の秘蹟であっても、秘蹟そのものはイエス=キリストの行うことなのであるから、つまり、客観的に秘蹟は成立していると認める「客観主義(誰からであろうと秘蹟が与えられたことが重要とする)」を唱え、こちらがカトリック教会の正統とされていた。
ところが、グレゴリウス改革では、不正な聖職者によって行われた秘蹟も、それ自体不正であるという「主観主義」の立場に立って否定されたため、それが正統解釈と異なるとして再び秘蹟問題が蒸し返されたのだった。聖職売買者を罷免するだけでなく、彼が行った秘蹟までも否定したのは、グレゴリウス7世の師であるレオ9世がすでに打ち出していたが、それに対しては一般の聖職者から激しい反発が起こり、聖職売買者によって叙品されたものは四〇日間の悔悛を行った後、その聖職を保って良い、という妥協が成立した。
しかし、秘蹟論争は、グレゴリウス7世が聖職売買者(シモニスト)によって行われた秘蹟も無効であるという、主観主義秘蹟論に立ったので、その後も、皇帝によって叙任された聖職者(つまり皇帝派)との対立は続いた。12世紀に於けるカタリ派などの異端はその中から登場した。ようやく11世紀末のウルバヌス2世のときに妥協が成立し、次にインノケンティウス3世のもとでカトリック本来の客観主義秘蹟論(アウグスティヌス以来の)にもどることによって、教皇権の安定がもたらされた。
クリュニー修道院で始まった修道院運動の影響を受け、聖職者の堕落を誡め、教皇の権威を回復するために教会の粛正を推進した。1075年に出された、この聖職売買と聖職者妻帯の禁止などの「グレゴリウス改革」といわれる一連の改革によって、西ヨーロッパのローマ=カトリック教会は次の時代に勢いを取り戻し、十字軍時代と教皇権の最盛期がもたらされることとなる。
グレゴリウス7世は改革の一環として、ドイツ王(神聖ローマ皇帝)を頂点とした世俗権力との聖職者叙任権を否定した。これに対して、ドイツ王(後に神聖ローマ皇帝)ハインリヒ4世は帝国教会政策(皇帝が聖職者の任免を通じて教会を支配する政策)を維持する立場から強く反発し、教皇と国王の間に叙任権闘争が持ち上がることとなった。ハインリヒ4世が聖職者叙任権否定を拒否して教皇の廃位に動くと、グレゴリウス7世は攻勢に出て1076年2月にハインリヒ4世を破門した。破門はキリスト教信者としての資格を失うことであり、王位を失うことにもなるのでハインリヒ4世は1077年1月、教皇に許しを請うため、グレゴリウス7世が滞在したカノッサ城を訪ね、雪中で3日3晩立ち続けるというカノッサの屈辱の事件が起きた。グレゴリウス7世はハインリヒ4世に対する破門を解き、教皇としての権威を保ったが、許されたハインリヒはドイツに戻って態勢を立て直して反撃に転じた。グレゴリウス7世は再び破門したが、ハインリヒ4世はこんどは軍を引きいてローマに入り、そのためグレゴリウス7世は追放された。ローマには対立教皇クレメンス3世が立ち、グレゴリウスはシチリア王に保護されてサレルノに逃れ、1085年にその地で没した。
ローマ教皇として
グレゴリウスは本名をヒルデブラントといい、イタリアのトスカナ地方の出身で、ローマに出て聖マリア修道院で修道士として研鑽を積み、そのころ盛んになっていたクリュニー修道院の修道院運動の影響を強く受けた。1046年に教皇グレゴリウス6世がドイツに追放されると、それに従ってドイツ、フランスを転々とし、49年に教皇レオ9世に仕えてローマにもどると、改革派として重きをなすようになった。1073年、前教皇アレクサンデル2世が死去した時、葬儀を取り仕切っていたヒルデブラントに対し、突然民衆の中から「ヒルデブラントを教皇にしろ!」という声が起こり、熱狂した民衆によって聖ペテロ教会につれこまれたヒルデブラントは教皇になることを承諾した。彼がグレゴリウス7世である。つまり、それまで(ドイツ人の)神聖ローマ皇帝が選んだ教皇が与えられていただけだったのに対して、ローマ人自身が選び、皇帝に承認させたのがグレゴリウス7世だった。グレゴリウス改革
ローマ教皇を頂点としたローマ=カトリック教会は、9~10世紀に聖職売買(シモニア)や聖職者の妻帯などがひろがり、教皇庁の中でも淫行や殺人が横行するなどローマ教皇の堕落も表面化していた。そのようなキリスト教会の堕落を批判して、教皇と教会の粛正を図る動きは、11世紀の中ごろの教皇レオ9世(在位1048~54年)の時に始まっているが、レオ9世以降の教皇のもとで教皇庁の実務に当たっていたヒルデブラントが教皇グレゴリウス7世(在位1073~1085年)となって本格化したので、1075年に始まるこの改革を「グレゴリウス改革」と言っている(教会改革とする場合もある)。ローマ教皇となったグレゴリウス7世は、次々と教会改革を断行した。とくに聖職売買(シモニア)と聖職者妻帯(ニコライスム)に対しては厳しく非難し、売買で得た聖職は無効とし、妻帯している聖職者を解任して追放した。一般に、この聖職者に対する厳格な姿勢は、クリュニー修道院の改革運動の影響を強く受けたためとされている。
グレゴリウス7世は、聖職売買・聖職者の妻帯などは、聖職者の地位が世俗の権力者である皇帝、国王、領主らに握られていることからくる弊害であると考えるようになり、明確にそれを否定することによって叙任権闘争へと突入していく。グレゴリウス改革は叙任権闘争と同義とされるようになる。
グレゴリウス7世の教皇教書 グレゴリウス7世が1075年に「ディクタトゥス・パパエ」(教皇教書)として示した全27条の条文は、叙任権闘争の中で明確に教皇の権力と職能を示している。その中の主要な条文に次のものがある。
1.ローマ教会はただ神のみによって創建された。
2.ローマ教皇のみが正しく普遍的といわれる。
3.教皇のみが司教を罷免し、あるいは復帰させることができる。
6.教皇によって破門された者と同居してはならない。
7.教皇のみが新たな法を定め、司教区を創設したり分割・統合することができる。
9.すべての君主は教皇の足に口づけすべきである。
12.教皇は皇帝を廃位することができる。
19.教皇は何人にも裁かれることはない。
22.ローマ教会は決して誤りを犯さなかったし、また聖書が証言しているように永久に誤りを犯さない。
23.教皇は教会法に従って叙階されている限り、・・・聖ペトロの功績によって神聖とされる。
<藤崎衛『ローマ教皇はなぜ特別な存在なのか』2023 世界史のリテラシー NHK出版p.41>
参考 クリュニー修道院出身か?
本稿ではいくつかの概説書(例えば浅野順一編『キリスト教概論』1966 p.166)などにもとづいて、グレゴリウス7世を「クリュニー修道院出身」としていたが、彼自身がクリュニー修道院に在籍した事に否定的な説が多いことを知り、その部分は訂正した。グレゴリウス7世については高校生が目にする用語集類では、山川出版社世界史用語集旧版(1983)や、三省堂必携世界史用語(1993)がはっきりと「クリュニー修道院出身」とし、山川の世界史人名辞典では「クリュニー修道院に入ってその改革運動の影響を強く受け」としている。一方で、山川用語集の現行版ではその記述は消えている。他の世界史辞典類も、現在ではクリュニー修道院出身とは言わずに、「その影響を受けている」としているのが多そうだ。ところが、新編西洋史辞典(京大西洋史辞典、創元社、1983)のクリュニー修道院の項には「ただし、グレゴリウス7世とクリュニー修道院との直接的関係については否定的見解が強い」とある。これは次にあげる堀米説のことを言っているのだろう。現在でも世界史の入試問題で、「11世紀にクリュニュー修道院出身で教会改革を行ったローマ教皇は誰か」と質問し、グレコリウス7世を正解とするのを見かけるが、あまりよい設問とは言えないこととなる。 → 下掲の藤沢道郎『物語イタリアの歴史』引用文を参照。
クリュニー修道院運動との関係
グレゴリウス改革について論じている堀米庸三『正統と異端』<1964 中公新書、後に中公文庫>もグレゴリウス7世がクリュニー修道院出身であるとの記述はない。それどころか、クリュニー修道院の運動の影響のもとでグレゴリウス改革が行われたという通説に疑問を呈し、両者は別個のものと見ている。その論拠は、聖職売買・聖職者妻帯はクリュニー修道院でも、グレゴリウス改革でも否定されているが、グレゴリウス改革の根幹であるローマ教皇などの俗人の聖職叙任権否定については、クリュニー修道院の主張には見られないというところにある。クリュニーでは皇帝や国王が教会・修道院に関与して聖職者を任命することを拒否してはいない。両者の直接的な関係には否定的であるが、教会改革の大きな流れとしては通底していると見ている。むしろ、クリュニー修道院徒は別に、11世紀の70年代にドイツに生まれたヒルサウ修道院の運動が「世俗権力からの独立という点で、クリュニーよりはるかに急進的傾向をもっていた」としてグレゴリウス改革に繋がるものを見出している。<堀米庸三『正統と異端』初版1964 中公新書 p.91-93、再版2013 中公文庫>堀米説は「これまでのようにグレゴリウス改革を直接クリュニー改革から導きだそうとする考えは、否定されなければならない」と結論づけ、その理由の一つとして「秘蹟」の捉え方での両者が本質的に異なっていることをあげている。 → 秘蹟論争
叙任権闘争
聖職者叙任権闘争では、教皇側は聖職売買などの聖職者の堕落の原因は、聖職者の任命権が神聖ローマ皇帝をはじめ、各国の国王と諸侯などの世俗権力に握られていると考えていた。グレゴリウス7世は1073年に教皇となると、1075年までに、いかなる俗人による聖職叙任も禁止する教皇教書を発布し、その旨をドイツ王(後に神聖ローマ皇帝)ハインリッヒ4世に伝えた。これに対してハインリヒは承伏せずに司教の任命を続け、逆にドイツの司教たちを集めてグレゴリウス7世は教皇選出規定に従っていないとしてその廃位を決議した。こうして、聖職叙任権をめぐる教皇と皇帝の争いは、決定的な対立となった。カノッサの屈辱 1076年2月、グレゴリウス7世がハインリヒ4世を破門にするとともに国王廃位を宣言した。それに乗じてドイツ各地の諸侯が反乱を起こすに至り、ハインリヒ4世は窮地に陥った。やむなく翌1077年1月、ハインリヒ4世はグレゴリウス7世を滞在中のカノッサの城に訪ね、雪の中の佇んで許しを請うという「カノッサの屈辱」の事件がおこった。ハインリヒの破門は結局解かれたが、国王が教皇に許しを請うという屈辱を与えられたことが、教皇権が優位に立ったことを示す象徴的出来事となった。
皇帝側の反撃 ハインリヒはドイツ国内のカトリック領主をまとめるためにはやむなく屈服したのだったが、やがて態勢を立て直して、1082年にはドイツ軍を派遣して反撃、ローマ教皇庁のグレゴリウス7世を包囲した。その結果、グレゴリウス7世はローマに幽閉され、南イタリア・シチリアのノルマン公ロベルト=ギスカルド(ルッジェーロ2世の兄)の手を借りて脱出したものの、南イタリアのサレルノで失意のうちに亡くなる。
参考 教皇になる前のグレゴリウス7世
教皇グレゴリウス7世となる前、イルデブランド(ドイツ語読みヒルデブラント)は教皇庁最大の実力者としてすでにその力を発揮していた。教皇になる前の彼については次のような紹介がある。(引用)背丈低く貧弱な体格で容貌もさえないこの修道士は、トスカーナ地方の寒村の貧家に生まれ、幼くしてベネティクト修道会に入り、刻苦精励して頭角を現し、教皇グレゴリウス6世の側近に仕えることとなり、聖界刷新、教会改革に情熱を燃やした。ところが、ローマ貴族の党派抗争に巻き込まれてこの教皇が廃位追放されたから、若いイルデブランドに受難の時期が訪れた。ドイツからフランスへと遍歴を重ね、最後は改革派の拠点クリュニー修道院に落ち着いたようである。1049年、クリュニー派の司教エギスハイム・ダグスブルクが教皇に選ばれ、ローマに旅立った時、扈従の列にイルデブランドの姿があった。司教は無事就位しレオ9世となり、イルデブランドはその懐刀として教皇庁の政務を切り回すこととなった。その後25年にわたって8人の教皇に仕え、東方教会との分裂、教皇選挙会の設立、ノルマン軍団との和平、聖職者妻帯の禁止等、カトリック教会のこの時期の重要施策のすべてに関与して決定的な役割を果たし、ヴァティカンの真の首長が彼であるとは、衆目の一致するところだ。<藤沢道郎『物語イタリア史』1991 中公新書 p.37>(ここではグレゴリウスが一時期、クリュニー修道院に「落ち着いたようである」という微妙な表現になっており、その出身であるとまで言い切れるのか,難しい気がする。)
Episode グレゴリウス7世とカノッサの女領主との疑惑
グレゴリウス7世が、ハインリヒ4世を迎えたカノッサは、北イタリアのトスカナ伯マティルダという女領主の居城であった。カノッサの女領主マティルダは女傑として知られ、父の代から神聖ローマ皇帝とは対立しており、一方、当時離婚問題を抱えており、教皇グレゴリウス7世にすがってその離婚を認めてもらい、両者の関係は深いものがあった。両者は不倫の関係にあるといううわささえあった。グレゴリウス7世に破門されたハインリッヒ4世は、当然その関係を非難した。<藤沢道郎『同上書』p.38-49>参考 秘蹟論争
グレゴリウス改革の聖職売買(シモニア)の禁止は、必然的に「秘蹟論争」というそれまで続いていたキリスト教の「正統と異端」の問題に深く関わることであった。この問題を深く追求した堀米庸三『正統と異端』の中から、グレゴリウス改革と秘蹟論争について拾っていこう。(引用)グレゴリウス改革は第一義的には、聖職の売買や聖職者の妻帯を一掃するという、教会規律の刷新を目的とするものであるが、与えられた成立期の封建社会という条件のもとでこの目的に到達しようとすることは、教会――修道院をふくめて――の現実の支配者であり、その支配に死活の利害をもつ世俗の地方権力者との闘争なしにすますことはできない。ローマ教会の場合、それは単にローマ市内外の地方権力者との闘争を意味するだけではなく、教会の最高の保護者たる皇帝との闘争を意味する。ここに教会の反封建主義闘争は、皇帝や国王を相手とする司教叙任闘争にまでいたるが、教会の敵となるのは単に教会を支配する世俗権力ばかりでなく、かえってこれと密接に結びついている封建貴族的高位聖職者層であったのである。<堀米庸三『正統と異端』初版1964 中公新書 p.94、再版2013 中公文庫>
(引用)さてこの一連の教会的闘争において、改革主義のイデオロギーの中心となったものは何であったか。それは教会のあらゆる腐敗の根源は俗権による教会の支配であり、それゆえ、教会は俗権から解放されて自由となる必要があるということ、一言にしていえば「教会の自由」こそ改革主義の標語であるとともにそのイデオロギーの核心であった。この自由を獲得するため、改革主義は、聖職の金銭による取引を聖職売買(シモニア)としたばかりでなく、俗人による聖職者の使命・選任をそのままシモニアとするのである。<堀米庸三『正統と異端』初版1964 中公新書 p.95、再版2013 中公文庫>通常、ここまでの理解でもよいが、堀米氏はさらにそこから「もしそれが認められるとすれば、聖職売買者の行う聖務・秘蹟は有効か」という秘蹟論争の主題が現れると指摘する。
秘蹟とはカトリック教会で聖職者の手をへてイエス=キリストによって行われるもので、洗礼・堅振・聖体・悔悛・終油・叙品・婚姻の七つがあるが、ここで問題になるのは洗礼と叙品(聖職者に位階を授けること)の二つである。もし、聖職者が、その地位を金で買った聖職売買者であったためにその地位から追われた場合、彼がすでに行った洗礼と叙品などの秘蹟は、有効なのか、無効なのか、というのが「秘蹟論争」である。カトリック教会ではそれまでも異端として排除された聖職者がそれ以前に行った秘蹟をどうすればよいか、という長い論争があったのである。そしてその論争は、5世紀の初めにドナートゥスが不正な聖職者の行った秘蹟はそれ自体も無効であるという「主観主義(誰が秘蹟を与えたかを問題にする)」を主張したのに対し、アウグスティヌスは不正な聖職者の秘蹟であっても、秘蹟そのものはイエス=キリストの行うことなのであるから、つまり、客観的に秘蹟は成立していると認める「客観主義(誰からであろうと秘蹟が与えられたことが重要とする)」を唱え、こちらがカトリック教会の正統とされていた。
ところが、グレゴリウス改革では、不正な聖職者によって行われた秘蹟も、それ自体不正であるという「主観主義」の立場に立って否定されたため、それが正統解釈と異なるとして再び秘蹟問題が蒸し返されたのだった。聖職売買者を罷免するだけでなく、彼が行った秘蹟までも否定したのは、グレゴリウス7世の師であるレオ9世がすでに打ち出していたが、それに対しては一般の聖職者から激しい反発が起こり、聖職売買者によって叙品されたものは四〇日間の悔悛を行った後、その聖職を保って良い、という妥協が成立した。
しかし、秘蹟論争は、グレゴリウス7世が聖職売買者(シモニスト)によって行われた秘蹟も無効であるという、主観主義秘蹟論に立ったので、その後も、皇帝によって叙任された聖職者(つまり皇帝派)との対立は続いた。12世紀に於けるカタリ派などの異端はその中から登場した。ようやく11世紀末のウルバヌス2世のときに妥協が成立し、次にインノケンティウス3世のもとでカトリック本来の客観主義秘蹟論(アウグスティヌス以来の)にもどることによって、教皇権の安定がもたらされた。