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リューベック

バルト海に通じるドイツの港市で、東方植民のなかで12世紀ごろに建設された。13世紀に帝国都市として自治権を獲得、バルト海貿易のための都市連合としてハンザ同盟を結成、一貫してその盟主となった。17世紀、ハンザ同盟が衰退すると共に都市としての繁栄も終わった。

 バルト海にトラーヴェ川を通じて出ることが出来るこの地は、もともとスラヴ人が居住していたが、ドイツ人が東方植民によって進出してきた。12世紀前半、この地を領主として支配したホルシュタイン伯は、商業拠点としてトラーヴェ川とヴァーケニツ川に挟まれた中洲に都市(当初は村落)を建設した。それがリューベックの始まりであった。それが大火で灰燼に帰した翌年の1158年、ホルシュタイン伯は上位の君主であるドイツ諸侯の一人ザクセン大公ハインリヒ(獅子公)に援助を願ったところ、ハインリヒは支配権を譲り渡すことを条件にその隣に新都市を建設することを引き受けた。事実上リューベックはこの年、ザクセン大公ハインリヒによって建設されたとされており、ハインリヒのあだ名をとって「獅子町」といわれた。リューベックを拠点とした商人は、その地の利を活かし、バルト海に進出、木材や毛皮を輸入して、陸路でハンブルクに運び、そこから北海を渡ってイングランドなどで販売するという、北海・バルト海交易ルートを作っていった。

帝国都市リューベックの成立

 ところが、さらに上位の権力である神聖ローマ皇帝(ドイツ王)フリードリヒ1世(バルバロッサ、赤鬚王)は皇帝権力の強化の一環としてバルト海への要地であるリューベックを狙い、1180年、ハインリヒ獅子公を反逆罪で失脚させた。それに対してリューベック市民は皇帝の上級支配権を認める代わりに、一定の自治を要求、皇帝もそれを呑んでリューベックは皇帝から自治権を認められたとされている。この時のフリードリヒ1世の特許状は今も伝えられているが、その真偽には疑念があり、正確にはわからない。史料的に確かめられる、リューベックに帝国直属都市特許状が与えられ、いわゆる帝国都市となったのは1226年、その孫のフリードリヒ2世(シチリア島のパレルモにいた)によって特許状が確認されたときとされている。

ハンザ同盟の盟主

 ドイツ人が新たに建設した都市では、商工業者の移住をを誘致するために広範な自治権が与えれることが有効であった。リューベックはドイツ人による建設都市としてうまれ、帝国都市となることで繁栄の基礎ができたといえる。建設都市の先鞭をつけ、帝国都市として繁栄するという成功によって、その後、リューベックに倣ってロストクやシュトラールズントなど次々とバルト海沿岸にドイツ人の都市か建設された。それらの都市の貿易商人は14世紀中頃から、明確な都市連合としてハンザ同盟を組織していくが、リューベックはその盟主として一貫して主導的な立場にあった。
 リューベックではハンザの総会が開かれ、市参議会(ラート)がその実務にあたった。リューベックがハンザの盟主となり、その事実上の中心となったのは、リューベックは生産的背景をもたず、商業都市として中継的な貿易の利益を上げるしかなく、ハンザの組織はその都市の繁栄に欠かすことができなかったからである。
黒死病 百年戦争の最中のヨーロッパを襲った黒死病は、1350年にリューベックに達し、他の都市と同じく全人口(2万数千と推定される)の3分の1が失われたようだ。しかし翌年は罹患の少なかった周辺の農村(黒死病は農村より衛生状態が悪く人口が集中していた都市で流行した)から多くの人々が流入し、まもなく人口を回復した。
デンマークとの戦争 ハンザとその盟主としてのリューベックが最盛期を迎えたのは、1361~1370年にわたったデンマークとの対立であった。1368年にはリューベック市長を司令長官とする連合海軍がデンマークに対して勝利をおさめ(デンマーク戦争)、北海・バルト海交易圏の覇権を維持した。バルト海の出入り口をおさえてハンザ同盟の大きな脅威となっていたデンマークを破ったことで、ハンザ及びリューベックは最盛期を迎えた。1375年に神聖ローマ皇帝カール4世が皇帝として初めてリューベックを訪問している。

市民闘争

 カール4世のリューベック訪問の際に、市当局は歓迎のための莫大な費用を市民税の引き上げで賄おうとした。それにたいして市民が増税反対の闘争を開始した。その背景にはリューベックでも手工業者である市民が成長し、市の権力を握る貿易商人であるハンザ商人に対する不満が高まっていたことが挙げられる。14世紀の市民暴動はいずれも鎮圧されたが、15世紀には一時的にであれ、手工業者が政権を握った。この商人層対手工業者層の対立はツンフト闘争といわれ、13世紀からヨーロッパの各地の都市で始まってたもので、中世封建社会を揺るがし、市民社会への移行をもたらした一つの動きであった。
リューベックの衰退 リューベックは15世紀以降のハンザ同盟の衰退にともない、その繁栄の時代を終わらせることとなった。リューベックで開催され続けたハンザ総会も1669年を最後に開催されなくなった。現在は人口20万の中堅都市になっており、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州の州都も北方のキールに与えられている。<以上、主として高橋理『ハンザ「同盟」の歴史』2013 創元社 による>

第二次世界大戦の戦火

 1942年3月28日、リューベックはイギリス空軍の爆撃を受け、多くの市民の犠牲とともに、中世以来のハンザ関連施設、聖マリア教会をはじめとする宗教施設がすべて灰燼に帰した。聖マリア教会はハンザ同盟の実務をとった市参事会(ラート)が開催された場所であり、黒死病のなかで「死者の舞踏」描いたの絵画や、日常の礼拝に使われた「死者の舞踏のオルガン」があったが、皆失われてしまった。現在は建物が再建されている。

世界遺産 ハンザ都市リューベック

 リューベックは1987年、ハンザ都市として世界遺産に登録された。戦災で破壊されたロマネスク様式の、ドイツ最古のレンガ建築である大聖堂や同じくレンガ造りのゴシック建築である聖マリア教会などが再建され、世界遺産の構成要素となっている。聖マリア教会はハンザ商人たちから成る市参議会の議会が開かれたところでもあり、ハンザの以降として登録された。 → ユネスコ世界遺産 Hanseatic City of Lübeck
リューベック市門

リューベックの市門

リューベック

聖マリア教会と市役所


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高橋理
『ハンザ「同盟」の歴史』
2013 世界史ライブラリー
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