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ハンザ同盟

中世後期の12世紀ごろに生まれ、14世紀に最盛期となり、近世初期の17世紀中頃まで、北海・バルト海沿岸と内陸の北ドイツから西はフランドル、東は現在のポーランド・バルト諸国・ロシアにおよぶ地域の商業都市が結成した都市同盟。リューベックを盟主にハンブルク、ケルン、ダンツィヒ、リガなど多くの都市が加盟し、さらにヨーロッパ主要都市に在外商館を設けた。14世紀には対立したデンマークと戦うなど大きな勢力となったが、16世紀以降、主権国家体制が成立したことで衰退、消滅した。

ハンザ同盟地図

ハンザ同盟加盟都市 赤点線は現在の国境
主要なハンザ都市 その他のハンザ都市 外地商館 その他の主要都市


 現在のドイツだけなく北ヨーロッパの多くの都市が参加した。北海・バルト海交易における遠隔地貿易の共通利益を守り、商圏を拡大するための都市同盟であった。その成立は自然発生的であり、結束は「同盟」といわれるほどには強くなく、リューベックで不定期の総会を開催、参加都市もそのつど変化した。ひろく通商上の特権が認められていたが、それが脅かされるような場合には各都市が艦船を出し、共同で戦った。14世紀のデンマークと戦って勝った戦争がその例だが、同盟として平時からの常備軍を持つことはなかった。
 ハンザ同盟は中世後期の商業と都市の発展を示す好例であり、その発展には12世紀ごろに始まる商人ハンザの段階と、14世紀中頃から始まり17世紀中頃まで続いた都市ハンザの段階にわけて以下のように整理することが出来る。<以下の記述は、高橋理『ハンザ「同盟」の歴史』2013 創元社 を要約した。>

商人ハンザ

ギルドから始まる ハンザとは歴史上の用語となったが本来は「商人の仲間」の意味の普通名詞であった。11世紀ごろから、ドイツ人の東方植民、キリスト教の東方への布教と共に、活動を活発にし始めた商人は、さらに12世紀ごろから幾つかの海港都市ごとに商人仲間が団体を作るようになった。それはギルドと同じであり、各種ギルドのうち貿易商人のギルドをさしてハンザといっていた。これが後のハンザ同盟の前身と考えられるが、この段階(12~14世紀中頃)は「商人ハンザ」と言われることが多い。なお、ハンザという言葉は、はじめは北西ヨーロッパ、特にフランドル地方とイングランドで用いられ、シャンパーニュ地方との毛織物取引を行う商人たちを指していた。
北海・バルト海交易の特質 北海・バルト海交易は、中世の遠隔地貿易のなかで、南方の地中海貿易が胡椒や宝石など奢侈品が主力であったのに対して、穀物や材木、毛皮など生活必需品を扱うことが多く、それらは比較的安価な商品なので、大量に仕入れて売りさばかないと利益が出ない。そのため、この北方貿易では商人たちの協力、協同が不可欠であった。
商業圏の拡大 商人ハンザの仲間は、木材や穀物・毛皮を求めて、北海・バルト海の外側に活動範囲を拡げ、フランドル、イギリス、スカンジナビア、そしてプロイセン(ドイツ騎士団領)、ポーランド、リトアニア、ロシアなどの外地に進出していった。バルト海ではスウェーデンのゴトランド島のヴィスビを中継拠点に、ロシア内陸部に進出、毛皮の取引にも進出した。これらの商人は、はじめ外地での共同利益を守るため、まず外地でハンザを結成し商館を設けていった。(地図参照)

都市ハンザ

帝国都市の成立 14世紀中ごろにはいわゆる「都市ハンザ」といわれる諸都市の同盟に発展した。ハンザはこの段階ではギルドとしての性格は無くなり、諸都市が経済的目的から組織した団体という意味になる。組織された諸都市の中心となったリューベックは、封建領主からの租税負担を逃れるためにドイツ皇帝から特許状を得て帝国都市として自治権を認められていた。ハンブルクブレーメン、ロストクなども同じように自治権が認められた帝国都市であったが、例えばハンザに加わった都市の中にはケルンのようにローマ時代に遡り、司教座都市として始まった都市などもあり、多様であった。
注意 ドイツ都市だけではない ハンザ同盟はよく「ドイツ・ハンザ」といわれ、ドイツの諸都市が結成したと思われがちであるが、実態はそうではなく、上記のドイツ都市以外にも、ヴィスビ(スウェーデンのゴトバルト島)、ダンツィヒ(現在のポーランドのグダニスク)、ケーニヒスベルク(現ロシアのカリーニングラード)、リガ(ラトビア)なども有力なハンザ同盟都市であった。
外地商館 都市同盟としてのハンザ同盟は、主要な外地に商館を置いた。特に、イギリス(イングランド)のロンドン、フランドル(現在のベルギー)のブリュージュ(ブルッヘ)、ロシアのノヴゴロド、ノルウェーのベルゲンが四大外地商館として重要であった。これらの外地商館は現地の役人や商人と折衝しながら、同盟都市の利益を守る活動を行ったが、その地の状況でその活動状況にはかなり違いがあった。ロンドン商館はロンドン市内にスチールヤードといわれる居住区をもっていたが、イングランド王はハンザ商人の活動をつねに統制しようと紛争が起きることが多かった。ブリュージュ商館は商館とはいっても独立した建物はなく、ハンザ商人は現地で家を借りて分散して居住していた、などの違いがある。

ハンザ同盟の内容

都市の「同盟」 14世紀の最盛期には加盟都市70前後を数えたともいわれるが、最大に数えると200という説もある。同盟は、通商権の保護のため、リューベックで不定期に総会を開いた。ただしこの同盟は、明確な条約や規則をもつ「同盟」ではなく、その結びつきは強くはなく、利害の対立から脱退する都市もあった。また全時期を通じて同盟関係を維持したわけではく、メンバーは常に変動した。また都市でなくドイツ騎士団などの団体が加盟したこともある。
注意 現在の感覚の「同盟」にはあたらない 「同盟」という概念は国際法上の一定の条約や規則を守ることを義務づけられ、権利を保障される代わりになんらかの義務的負担を強いられ、定期的な会議や事務局の存在などが想定されるが、そういった意味ではハンザは「同盟」ではなかった。ドイツにはいくつかの都市が国際政治的な必要から都市同盟を結成(ライン都市同盟、シュヴァーベン都市同盟など)しているが、ハンザ同盟は政治的理由ではなく純経済的動機から成立した組織であるので混同してはならない。
他の同盟との違い 日本で「ハンザ同盟」という用語が定着してしまったため、何か強い同盟関係、あるいは近代以降の国家間の同盟といったイメージが持たれてしまったが、実態は非常にルーズな関係であり、共通の法律や共通の軍隊などは存在していない。教科書では北イタリアのロンバルディア同盟と並べて都市同盟として説明されるが、ロンバルディア同盟は神聖ローマ皇帝のイタリア支配に対する抵抗という政治的、軍事的目的での都市同盟であり、経済的目的で組織されたハンザ同盟とは性格が異なる。世界史で言えば、古代のデロス同盟のようなものでもないし、近世のシュマルカルデン同盟のようなものでもなかった。
注意 ハンザは軍隊を持たなかった ハンザの中央機関としてはハンザ総会のみで、その実務はリューベックの市参議会(ラートという)が行っていたに過ぎない(現代のEUのような議会と事務局はもつような組織ではなかった)。また、ハンザは個々の都市は海賊から海路を守るための海軍的な艦船や、陸路を守るための兵力は持っていたが、同盟として平時から軍隊を持つことはなかった。ただ、14世紀中頃にハンザの商権に介入してきたデンマークとの間で戦争になった時は、臨時の合同艦隊が編制された。
(引用)商業勢力であるハンザは何よりも戦争を嫌い、話し合いと外交で目的を遂げることを不動の基本方針としていた。対デンマーク戦争だけは例外なのに、その勝利が輝かしいためにハンザの本質が見誤られやすいといだけのことである。ハンザの人々は根本的には政治人ではなく経済人であったのである。<高橋理『同上書』 p.140>

デンマークとの戦争

 彼らの商業活動の拡大に伴って彼らの利益がバルト沿岸諸国と対立するようになった14世紀には、ハンザ都市の中の有力な都市は臨時に都市同盟を結成して海軍を組織し、共通の指揮の下で戦うことがあった。1368年には当時の強国デンマークとの戦争(デンマーク戦争)がおこった。
 デンマークのヴァルデマル4世は王権強化と領土拡張を目指し、1361年に突如、ゴトランド島のヴィスビを襲撃し、占領した。東方との交易ルートを奪われることになったリューベックなどハンザ都市は、翌年、連合艦隊を編成して反撃したが、デンマーク海軍には敗れ、ハンザ艦隊を率いたリューベック市長は責任を取らされて斬首されてしまった。反撃を期すハンザ都市は、1367年にケルンで会議を開き、北ドイツからプロイセン方面やネーデルラント方面の諸都市も参加して「ケルン同盟」を結成した。
ケルン同盟 ケルン同盟は航海の安全を共同で守るためにそれぞれ軍艦と兵員を供出し、一定額の税を徴収して財源に充てることにし、さらに明確にリューベックを盟主とすることが定められた。このケルン同盟(ケルン自身は参加していない)は、ハンザ都市が初めて「同盟」として結束したことを示し、また14世紀後半のハンザ「同盟」の全盛期の開幕を示す重要なできごとであるが、あくまでデンマークとの戦争という事態に対応した、期限を限定(デンマークとの平和条約締結後、3年まで)した取り決めである。
ハンザ同盟の勝利 1368年、ハンザ側は艦船大小30隻、兵力2千の連合艦隊を編成、リューベック市長が司令長官となって5月2日、デンマークの首都コペンハーゲンを襲撃した。ヴァルデマル4世は海戦を避けて大陸に移っていて不在だったため虚を突かれ、ハンザ軍はコペンハーゲンを荒らしまわった。デンマーク側に付いたノルウェーのベルゲンはハンザ軍の一部のオランダ都市勢が襲撃し占領した。こうしてデンマーク戦争はハンザ側の勝利となり、1370年にシュトラールズントで平和条約が締結され、ハンザ側は戦争以前の交易ルートの安全を回復した。ハンザは航海の安全を保証するためのデンマークの要塞を15年間保障占領するなどが定められたが、領土的な賠償は求めなかった。
注意 ハンザ同盟の勝利の意味 1370年のシュトラールズント平和条約から500年後の1870年に、勝利500年を祝う式典が開催された。当時、統一の実現の希望に沸き返っていたドイツではナショナリズムに酔った歴史学者が参集し、これをきっかけに「ドイツ・ハンザ」の研究が盛んになった。しかし、デンマーク戦争で勝利したのはドイツと言う国家でなく、ハンザに結集した諸都市の連合軍だった。それをドイツ・ナショナリズムによってドイツ民族、ドイツ国家の勝利として捉えるのは誤っている。かといってこの勝利とその条約を過小評価することも出来ない。
(引用)問題はその前後の時代をどう評価するかにある。シュトラールズントの大勝利に至るまで長年にわたってドイツ商人が商業的地位を築いていった努力は正当に評価されねばならない。他方、同条約にも見られるように、ハンザには元来政治的・軍事的野心はなかったのであり、それをドイツ民族の勝利と見るのは近代の政治的要請による歪曲である。また、同条約以後ハンザが民族的栄光の担い手として北方に覇を唱えたと見るのも同様に不当であり、むしろ同条約以後は膨張的野心を抱かず、既得権維持のための守旧政策に転じたという真相をも見落としてはならない。<高橋理『同上書』p.109>
 北欧諸国との商権をめぐって対立が激しくなると、北欧諸国はハンザ同盟に対抗するために、1397年カルマル同盟を結成した。

ハンザ同盟の衰退

 ハンザ諸都市の同盟が長く存続したのは、イギリス・フランス・スペインなどに比べて、ドイツの王権は弱く、国家統一が遅れていたことが理由としてあげられる。ハンザ同盟は、フランドル地方ではイングランド商人と競合し、またイングランド王国への進出ではイタリア商人とも競合していたが、15世紀になると、ハンザ商人の優位に対する反発が強まり、フランドルやイングランドでハンザ商人の特権を否定する動きが出てきた。
 1426年には再びハンザを叩こうとしてデンマークがズンド海峡(デンマークとスカンジナビアの間の狭い海峡)の通航に課税しようとしたことから、第二次デンマーク戦争が起こった。リューベックを中心としたハンザ海軍はここでもデンマークを破り、ズンド海峡航行権を得たが、この戦争は他の同盟諸都市は加わらなかった。
 15世紀後半になると、百年戦争やバラ戦争で苦しんでいたイングランド商人が復活し、バルト海方面に進出、ハンザ商人とさかんに競合するようになった。両海軍が衝突とする事態となったが、1474年にはユトレヒトで和平交渉が持たれ、互いの商業活動の相互主義が確認された。15世紀にはオランダ商人もバルト海への進出を強め、ズンド海峡を通って遠くダンツィヒと取引し、ロシアとの交易にも乗り出した。
 東方でハンザを脅かしたのは、ポーランドであった。1410年、タンネンベルクの戦いでドイツ騎士団を破り、その結果、ダンツィヒ、ケーニヒスベルク、リガなど東部のハンザ都市が、次第にハンザから距離を置くようになった。
 ハンザ都市の内部にも、従来の遠隔地貿易に従事して富を貯えた上流商人層に対して、成長した手工業者(ビール醸造業や造船業など)が市政への参加を求めて「市民闘争」(一般にツンフト闘争といわれている)に立ち上がるという大きな変化が起こってきた。
外地商館の没落 ハンザの衰退を最もはっきり示すのが外地商館の没落である。最も早かったのがノヴゴロドで、絶対王政を確立しようとしたイヴァン3世は1494年にドイツ商人を捕らえ、商館を没収した。フランドルのブリュージュアントウェルペンにその地位を奪われ、1530年代にはハンザ商館は消滅した。そして、ハンザ商人と激しく対立するようになったイングランド商人の請願を受けたイングランド国王は徐々にハンザの特権に制限を加えて行き、最終的には1598年のエリザベス1世の勅令によりロンドンのハンザ商館が閉鎖された。

ハンザ同盟の消滅

 16世紀終わりごろになると、ハンザ都市はリューベック、ハンブルク、ブレーメンの3都市のみがその業務を請け負い、事実上、この三市だけの同盟という存在になった。その背景は、ハンザの周辺で、イングランド、オランダ(ネーデルラント連邦)、ポーランド、ロシア、北欧諸国という主権国家が成長し、純粋な経済的目的で結びついている都市同盟に存続の余地が無くなってきたことにあった。
宗教改革 宗教改革はハンザ都市同盟の結束をさらに揺るがすこととなった。ハンザ都市の多くはルター派が優勢であったが、ブレーメンではカルヴァン派が勝利を占め、また各都市内部でルター派を否定する急進的な再洗礼派も生まれていた。宗教改革と市民闘争は結びついており、それまで各都市の市政を握っていた上層部のハンザ商人にたいする反発が市民のなかに高まっていった。
三十年戦争 ハンザに最後のとどめを刺したのは三十年戦争である。宗教戦争という様相から始まったこの戦争は国際的な戦争に変質し、ハンザ都市を含むドイツ全土の荒廃が進んだ。ハンザそのものは常備軍を持たないので、戦争に際して中立を表明したが、連合として行動することが出来ず、各都市にその判断がまかされた。戦争に巻き込まれた度合いは異なっていた。皇帝・旧教側のヴァレンシュタインはハンザ都市の冨に目を付け提携を申し入れたが、ハンザ側がそれを拒否すると、その一都市シュトラールズントを攻撃した。シュトラールズントはスウェーデンに援軍を要請、1628年に20日あまりの包囲戦で勝ち抜き、ヴァレンシュタイン軍を撤退させた。
 三十年戦争をつうじて四分五裂となったハンザ諸都市は、1630年にリューベック、ハンブルク、ブレーメンが三市同盟を結成し、1648年ウェストファリア条約に全ハンザ都市を代表して参加した。その後も外地商館の復活や他の都市同盟との合併などをめざしたが、他のハンザ都市との足並みは揃わず、1669年を最後にハンザ総会は開催されなくなった。これがハンザ同盟の終末とされている。

Episode 車のナンバーにHのつく3都市

 現在のドイツで、リューベック・ハンブルク・ブレーメンの三都市のみ、自動車のナンバーにHがつけられ、リューベックの車にはHL,ハンブルグの場合はHH,ブレーメンはHBとなっている。このHは、「ハンザ」の頭文字であり、他の都市では付けられることはない。この三都市だけが「自由ハンザ都市」として今でも言われているからであり、それは1669年の最後のハンザ総会後もハンザ都市として残ったからであった。車両ナンバーに残るHの記号に、ハンザ同盟の「栄光」のあとを留めている。<高橋理『同上書』p.223>

教科書・用語集での「ハンザ同盟」

 ハンザ同盟は、山川出版の詳説世界史Bでは、前世紀の旧版から、「リューベックを盟主として、14世紀には数十の加盟市を数え、地中海沿岸地方以外の全ヨーロッパで商業活動をおこない、また共同の武力をもって、政治上でも大勢力を形成した。」といった説明であった。これは現行教科書<2016年版 p.141>でも変わっていない。
 実教出版の世界史B現行新訂版でも「リューベックを盟主としたハンザ同盟は、独自の決議機関(総会)、外交使節、在外商館、軍隊などを保持して諸王国と交渉した」<p.143>としてほぼ同様である。
 山川出版の旧版世界史B用語集では具体的に「共通の貨幣・度量衡・取引法を決め、陸海軍を維持し、国王や諸侯に対抗して北海・バルト海一帯を制圧した。」と補足していた。
 ところが、現在の新版用語集では旧版の具体的な説明はなくなり、「北海・バルト海沿岸のドイツ商人による商業上の利益を目的としたもので、不定期の総会以外に統治機構を持たない結束のゆるい組織であった。14世紀にデンマークを破って最盛期を迎え、政治的にも大きな影響力を持った。」<p.101>と変更になっている。
 あきらかに現行用語集の説明は、教科書の記述とトーンが変わっており、学習者はとまどうだろう。「結束のゆるい組織」と述べる一方、「共同の武力」とか「軍隊などを保持」、「陸海軍を維持」などの説明が消えている。これは上述の高橋理氏の『ハンザ「同盟」の歴史』などの説に依拠したものであろう。
 高橋氏の明らかにした、同盟をカッコ付きにして、政治的・軍事的な同盟ではなく、純粋に経済的利益の保護と商圏の拡張だけを目的に組織された都市同盟であり、定期的な総会や事務局なども持たず、ましてや常備軍などは持たなかったというハンザの実態は、今までのハンザ「同盟」観の見直しを迫っている。また、従来の「ドイツ・ハンザ」という言い方によって、ハンザ同盟のデンマークとの戦いの勝利を過大に評価するのは、18世紀中期のドイツナショナリズムの偏った見方からくる誤謬であるという指摘も興味深い。世界史教科書の書き換えには至っていないが、用語集の記述の変更にその影響が現れているようだ。
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書籍案内

高橋理
『ハンザ「同盟」の歴史』
2013 世界史ライブラリー
創元社 Kindle版

1980年の旧著の改訂新版だが、日本でのハンザに対する誤解を解くには充分の書。同盟をあえて「」付きにした意図を読み取ろう。