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フリードリヒ1世

12世紀のシュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝。北イタリア進出を目指し、ローマ教皇・ロンバルディア同盟と戦った。赤髭王と言われたた勇猛な皇帝であったが第3回十字軍に参加し、小アジアで事故死した。

 シュタウフェン朝神聖ローマ皇帝皇帝。在位1152~1190年。赤髭王(バルバロッサ)というあだ名がある。中世で最も有名な皇帝の一人。ドイツ王としてオーストリア、ブルグンドなどに領土を拡大するとともに、神聖ローマ皇帝としてイタリアの支配を目指し、1158~78年にかけて4回にわたってイタリア遠征を行った。 → イタリア政策
 なお、フリードリヒ1世は、1156年にフランスのブルゴーニュ公の娘ベアートリス・ド・ブルゴーニュと結婚した。このとき、フランスのトゥルバドゥールの音楽がドイツに紹介され、ドイツの吟遊詩人ミンネジンガーが盛んになる一つの大きな契機となった。

ロンバルディア同盟との戦い

 神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世の北イタリア進出に抵抗したのは、ローマ教皇のアレクサンデル3世であった。アレクサンドル3世は、フリードリヒ1世が対立教皇を次々と4人も選んだのにたいして、北イタリアの諸都市が反皇帝で結成したロンバルディア同盟と提携して対抗した。両者は1176年レニャーノの戦いで戦ったが、このときはフリードリヒ1世は敗北している。フリードリヒ1世は都市同盟側と和解し、都市国家(コムーネ)の自治を正式に承認せざるをえなかった。

南イタリア進出

 フリードリヒ1世は、ローマ教皇を支援する南イタリア・シチリア島の両シチリア王国を懐柔するため、長子ハインリッヒを初代ルッジェーロ2世の娘コンスタンツァの夫と結婚させた。これで両シチリア王国の相続権を得たため、後にシュタウフェン家は南イタリアにも領土を持つこととなる。

第三回十字軍

 1189年イェルサレムがイスラーム勢力のサラーフ=アッディーンに奪われたことから、第3回十字軍が始まると、フリードリヒ1世はイングランドのリチャード1世、フランスのフィリップ2世とともに参加し、小アジアまで遠征した。しかし、彼自身は1190年に事故死し、フィリップ2世は帰国したため、リチャード1世が単独でサラディンと講和するにいたった。
 事故死したフリードリヒ1世のあとはドイツと南イタリア(シチリアのパレルモを中心に)を支配したシュタウフェン朝は、孫のフリードリヒ2世の時に全盛期となる。

Episode 赤髭王の死因

(引用)1187年の十字軍の主役の一人ドイツの「赤ひげ帝」フリードリッヒ1世は、遠征の途中、小アジアの東南岸セレウキアで水死した。事故の原因は今日では詳かにされていない。皇帝が小アジアの戦塵を洗い流すため水浴をして年齢(67歳)のせいでショック死したとか、馬上で川に乗り入れ馬がつまづいて水中に投げ出されて甲胄の重みで水底に沈んだとか、諸説紛々としている。イスラム側にとっては最高の喜びとなる奇跡であり、イスラム側の歴史家はからかい半分の調子で「王は川におりて水浴びをし、腰のあたりまでしかない水におぼれて死んだ」(アル=アティル)と書いている。随行した王子のフリードリッヒがただちに王位を継いで意気阻喪した軍勢を掌握しようとしたが、アンチオキアまで来てみると総兵力は半数以下の4万になっていた。<橋口倫介『十字軍』岩波新書  p.158>
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書籍案内

橋口倫介
『十字軍―その非神話化』
1974 岩波新書