日本銀
日本からの輸出品として中国にもたらされ、16世紀末~17世紀に世界の銀の3分の1~4分の1を占めた。
日本は中世以来、銀の産出国であった。15世紀ごろから中国の銀の産出量が減少したため、中国に輸出されるようになった。それを可能にしたのは、16世紀には朝鮮から伝えられた灰吹き法という製錬技術であった。特に石見銀山(島根県)は最も早く開発が進み、また生産量も多かった。次いで生野銀山(但馬)、院内銀山(秋田)など、銀山が開発されていった。
17世紀初頭の最盛期には、日本産の銀は世界の生産量のおよそ3分の1~4分の1を占めていたと考えられている。しかし16世紀後半にはじまるスペインによる新大陸のポトシ銀山の開発から、現在のボリビアやメキシコ産のメキシコ銀が増大し、中国にもたらされてスペイン銀貨にといわれるようになり、日本銀はそれに押されて次第に衰退した。石見銀山は豊臣秀吉、徳川家康によって直轄銀山として採掘されていたが、江戸時代にはいると鉱脈が絶え、現在は廃鉱になっている。2007年、石見銀山は世界遺産に登録された。
灰吹き法は中国や朝鮮で行われていたが、日本に伝えられてから生産性を高めたのはなぜか。中国と朝鮮の銀は官営の鉱山で行われていたために働く人たちが自立性、自発性を持たず、生産性が上がらなかった。また朝鮮政府はこの技術を秘密にしていたにもかかわらず日本の博多に伝わると、当時の日本での精錬業は職人の小経営で営まれていたため、職人が競って技術を磨き、その精錬法は瞬く間に各地の鉱山に持ち込まれた。16世紀中ごろの日本が農業においても自立した小百姓による小経営が成立していたので、それが新しい技術を受け容れ、発展させた理由であった。またそのような農業・工業における小経営の自立の背景には、農機具や鉱山の採掘道具などに使われた製鉄業の技術革新があった。<山口啓二『鎖国と開国』1993初版 岩波書店 p.p.9-11 2006 岩波現代文庫版>
当時、明で銀の需要が増大した理由は、当時の明の財政が対モンゴル戦争(タタール及び西部のオイラトとの戦い)の必要から銀に依存していたからである。明は貿易の拡大を求めて北方辺境に侵入を繰り返すモンゴル勢力に対抗するため、15世紀後半から万里の長城の整備し、長城に沿って9つの軍管区(九辺鎮)をおき、大量の軍隊を配備したが、内地で銀を税として取り立てそれを北方に運んで現地で必要な軍需物資を買い付けるようになった。銀は軽くて遠くに運びやすいという点で価値が高い金属であった。そのため税や徭役の銀納化が進み、銀の需要が急増しはじめたところに、日本銀の産出が急増したので、「日本から中国に向けての銀の流れが奔流のような勢いで生ずるのは当然であろう」。
しかし、明朝はその初期から社会経済に対する強い統制・管理政策をとり、朝貢貿易を推進する一方で「海禁」策をとり民間海上貿易は禁止していたので、日本からの銀の流れは阻止されることになった。日本から中国への銀の奔流は、いわば明の築いた“海禁”というダムによって堰き止められていたわけで、このダムを突きくずそうとする勢いのなかで、16世紀の“倭寇”が成長してくる。
16世紀に倭寇の活動が再び活発になり「後期倭寇」といわれるが、それは日本人だけでなく中国など東シナ海周辺の人々を含む密貿易集団であり、彼らは中国の東南沿岸海域で略奪を行うばかりでなく、同時に彼らのもたらす銀は、この地域の経済の活況の源でもあったのである。<岸本美緒『東アジアの「近世」』世界史リブレット13 1998 山川出版社 p.8-12>
→ 北虜南倭
17世紀初頭の最盛期には、日本産の銀は世界の生産量のおよそ3分の1~4分の1を占めていたと考えられている。しかし16世紀後半にはじまるスペインによる新大陸のポトシ銀山の開発から、現在のボリビアやメキシコ産のメキシコ銀が増大し、中国にもたらされてスペイン銀貨にといわれるようになり、日本銀はそれに押されて次第に衰退した。石見銀山は豊臣秀吉、徳川家康によって直轄銀山として採掘されていたが、江戸時代にはいると鉱脈が絶え、現在は廃鉱になっている。2007年、石見銀山は世界遺産に登録された。
灰吹き法とその背景
中世までの銀は、地表に現れた鉱脈を、水がわいたりして掘れなくなるあたりまで掘り進み、掘り出した銀鉱の上に木を積み上げて5日間ほど焼き続けたうえで灰の中に残った銀を取り出す、という低い技術しかなかった。16世紀の中ごろ、朝鮮から伝えられた灰吹き法という精錬法は、まず銀鉱石に鉛を混ぜて一緒に焼き、溶けた鉛の中に銀が混ざって一緒に固まった含銀鉛という金属が出来る。これをコオリという。それを鉄の鍋に灰を一杯入れた上にのせ、灰をたくさんかけ、ふいごで空気を吹き入れて焼くと、酸化鉛が溶けて灰にしみこみ、銀だけが灰の上に浮いたように残る。灰吹き法は中国や朝鮮で行われていたが、日本に伝えられてから生産性を高めたのはなぜか。中国と朝鮮の銀は官営の鉱山で行われていたために働く人たちが自立性、自発性を持たず、生産性が上がらなかった。また朝鮮政府はこの技術を秘密にしていたにもかかわらず日本の博多に伝わると、当時の日本での精錬業は職人の小経営で営まれていたため、職人が競って技術を磨き、その精錬法は瞬く間に各地の鉱山に持ち込まれた。16世紀中ごろの日本が農業においても自立した小百姓による小経営が成立していたので、それが新しい技術を受け容れ、発展させた理由であった。またそのような農業・工業における小経営の自立の背景には、農機具や鉱山の採掘道具などに使われた製鉄業の技術革新があった。<山口啓二『鎖国と開国』1993初版 岩波書店 p.p.9-11 2006 岩波現代文庫版>
中国で銀の需要が多かった理由
日本の銀は、中国の浙江や福建など東南海岸地方に直接運ばれるか、朝鮮を通って遼東半島から中国本土へ運ばれていった。当時の朝鮮と明朝は、ともに海禁、つまり民間の貿易には厳しい禁止・制限策をとっていた。当時、明で銀の需要が増大した理由は、当時の明の財政が対モンゴル戦争(タタール及び西部のオイラトとの戦い)の必要から銀に依存していたからである。明は貿易の拡大を求めて北方辺境に侵入を繰り返すモンゴル勢力に対抗するため、15世紀後半から万里の長城の整備し、長城に沿って9つの軍管区(九辺鎮)をおき、大量の軍隊を配備したが、内地で銀を税として取り立てそれを北方に運んで現地で必要な軍需物資を買い付けるようになった。銀は軽くて遠くに運びやすいという点で価値が高い金属であった。そのため税や徭役の銀納化が進み、銀の需要が急増しはじめたところに、日本銀の産出が急増したので、「日本から中国に向けての銀の流れが奔流のような勢いで生ずるのは当然であろう」。
しかし、明朝はその初期から社会経済に対する強い統制・管理政策をとり、朝貢貿易を推進する一方で「海禁」策をとり民間海上貿易は禁止していたので、日本からの銀の流れは阻止されることになった。日本から中国への銀の奔流は、いわば明の築いた“海禁”というダムによって堰き止められていたわけで、このダムを突きくずそうとする勢いのなかで、16世紀の“倭寇”が成長してくる。
16世紀に倭寇の活動が再び活発になり「後期倭寇」といわれるが、それは日本人だけでなく中国など東シナ海周辺の人々を含む密貿易集団であり、彼らは中国の東南沿岸海域で略奪を行うばかりでなく、同時に彼らのもたらす銀は、この地域の経済の活況の源でもあったのである。<岸本美緒『東アジアの「近世」』世界史リブレット13 1998 山川出版社 p.8-12>
→ 北虜南倭