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ホンタイジ/太宗

後金の第2代ハン。1636年、国号を清に変え太宗となる。明を倒すことはできず、その滅亡前年に死去した。

 ヌルハチに次いで後金(アイシン)の第二代ハンとなったのがホンタイジ。後に、国号が清となってから、改めて太宗と廟号を贈られた。初代ヌルハチの第8子で、ホンタイジという名前は漢語の「皇太子(ホアンタイヅ)」からきたといわれている(ただし女真には皇太子という制度はないので、ここでは名前として使われたものと思われる)。第2代ハンとしてはスレ=ハンという。在位1626~1643年。

モンゴルと朝鮮を攻撃

 ホンタイジは、明と直接対決する前に、モンゴルと朝鮮を制圧しようとし、モンゴルに対しては1632年に内モンゴルチャハル部を討ち、朝鮮に対しては、1627年(朝鮮では丁卯胡乱という)と1636年(丙子胡乱)の2度、大軍を朝鮮におくって属国とした。これによってホンタイジは、モンゴル高原から満州の地、朝鮮半島にその勢力を及ぼす大帝国の支配者となり、残るは山海関以南の中国本土のみとなった。

国号を清に改める

 1636年、ホンタイジ(スレ=ハン)は、後金を改めて国号を中国風に(正確には大清国)とし、年号も崇徳とした。彼自身も中国風の皇帝の称号として太宗という廟号を贈られた。
 国号を中国風に改めただけでなく、中国風の官制を導入し、漢人も登用して清王朝の整備に努め、その基礎を創った。こうして次第に女真社会の部族制の伝統から脱して、中国全土を支配する体制を整え、国力の充実を背景に明への圧力を強めた。1638年に征服地を管理する中央官庁として理藩院が設けられた。

明との攻防

 しかし、ホンタイジの時代は一時的に侵攻して北京を脅かしたものの、明側も山海関の防衛を固めたため、その支配は山海関の内側におよばなかった。山海関を境界とする明と清のにらみ合いが膠着状態となる中、1643年にホンタイジは死去した。
 その死後に、清に大きな好機が到来した。1644年、明で李自成の乱が勃発したのである。その結果明は滅亡し、その混乱に乗じた清軍は同年中に北京に入り、李自成を討って中国全土を支配することに成功する。

Episode ホンタイジ、「紅衣大将軍」で明軍を破る

 満州軍(清朝軍)の侵攻に悩まされた明は、マテオ=リッチからヨーロッパの大砲の作り方を学び、勢力を挽回しようとした。アダム=シャールに命じて大砲を鋳造させ、その操作法を教練させ、実戦に持ち出した。この「神の福音を説く宣教師の作った大砲」は大いに威力を発揮し、ヌルハチの満州軍を破った。ヌルハチは砲弾の破片による傷がもとで死んだと言われる。この大砲が満州側にわたったときの喜びはたいへんおおきなもので、太宗ホンタイジは大砲に「紅衣大将軍」という最高の官職を与えたという。そして今度は逆に明軍が砲撃される番となり、明帝国の滅亡は早められた。<愛宕松男・寺田隆信『モンゴルと大明帝国』講談社学術文庫 p.403~404> 
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書籍案内

愛宕松男/寺田隆信
『モンゴルと大明帝国』
1998 講談社学術文庫