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内モンゴル/内モンゴル自治区

モンゴル高原の外モンゴルに対し中国に接した地域を言う。現在は中華人民共和国の内モンゴル自治区として自治が認められている。

 うちもんごる。モンゴル高原の中心部を外モンゴルというのに対し、その南に広がる草原地帯で、中国と境界を接する地域を内(うち)モンゴルという。モンゴル人が遊牧生活を送る地域であるが、漢民族の居住も多く、漢文化の影響も強い。唐代では東突厥の統治のため、単于都護府が置かれた。清では外モンゴルと同じく、藩部として支配を受けた。
 辛亥革命後の1915年に、モンゴルの二つの地域に違いが生じた。外モンゴルは自治が認められたが、内モンゴルは中華民国に編入された(キャフタ協定)。モンゴルに隣接するロシアでロシア革命が勃発するとその影響がモンゴルにもおよび、1924年に、外モンゴルはソ連に次ぐ二番目の社会主義国であるモンゴル人民共和国が成立した。
 中華民国領であった内モンゴルに対しては、満州に進出した日本が、“防共”の最前線として重視し、関東軍はさかんに内蒙古工作を続け、軍事侵攻を行った。

内モンゴル自治区の成立

 抗日戦争を続ける中国共産党は、国家分裂を避けるため、「民族独立」の権利を否定して、「民族自治」政策に転換した。第二次世界大戦後に成立した中華人民共和国では、内モンゴルにも独立か、モンゴル人民共和国への帰属を主張する声が上がることが警戒され、中国共産党はモンゴル出身の党幹部ウランフを内モンゴルに派遣し独立運動を押さえ込んだ。国共内戦で共産党軍が有利な戦いを進めていることを背景に、1947年5月1日に「内モンゴル自治政府」が樹立され、中華人民共和国を構成する一つの「自治区」となった。これは、これ以降の「人民共和国の民族区域自治制度」の原型となり、新疆ウイグル自治区、チベット自治区などが続くことになる。<王柯『多民族国家 中国』2005 岩波新書 p.77-78 > → 中国の少数民族

文化大革命と内モンゴル自治区

 中華人民共和国の建国以前、1940年代の国共内戦(第2次)が激しかった時期に、中国共産党は内モンゴルの革命勢力を動員・組織するために党幹部のウランフを派遣した。ウランフは内モンゴルが民族問題や宗教問題で特殊な状況があるため、共産党を名乗らず、「内モンゴル人民党」という現地の人々に受け入れられやすい名称を用い、中国共産党の支部活動をおこなった。その略称が「内人党」だった。上述のようにウランフは内モンゴルの独立を抑え込み、中華人民共和国に組み込むことに成功し、内モンゴル自治区人民委員会主席となった。
 ところが、文化大革命でウランフは思わぬ危機に陥った。1966年、文革の指導部の中央文革小組のメンバーでもっとも原理的な理論化とされていた康生が、「内人党」は中国共産党の支部ではなく、寄り合い所帯で、大量の悪人を隠す組織だったと言いだし、今も地下活動をおこなっている、と断言した。そのれは毛沢東が進める劉少奇を頂点とした実権派、走資派の打倒につながるもので、内モンゴルの実力者ウランフを攻撃する砲弾として放たれたものだった。
 内モンゴル自治区革命委員会は、内人党の党員だった者は期限内にに登録せよと命じ、拒めば敵対矛盾として処罰すると布告した。かつて内人党に関わった人々が次々と登録、漢族幹部による「整頓」が行われた。69年になると「表向きは共産党だが、内実は内人党だ、やっつけなければならない」とされ党や軍の中の漢族・モンゴル族双方の軍人、市民で「内人党」分子とされた者は河北省唐山集中訓練センターに送られ批判闘争にさらされることとなった。このためこの事件全体で1万6千人以上が迫害によって死亡した。この内モンゴル自治区「内人党」事件は、文革中の最大の冤罪事件の一つであった。<厳家祺・高皋/辻康吾訳『文化大革命十年史』上 1996 岩波書店初版 p.255>
 ウランフ(烏蘭夫 1906-88)は内モンゴル出身のモンゴル人で、25年に入党した古参党員。モスクワ留学をへて47年に上記の内モンゴル自治区人民政府主席となる。54年国務院副総理、56年党中央委員。67年、「内人党」事件で失脚し、73年に復活後は、全人代常務委員会副委員長、全国政協副主席、国家副主席などの要職を務めた内モンゴルを代表する共産党指導者であった。
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