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ピニョー

フランス人宣教師でベトナムの阮福映を支援し、フランスのインドシナ進出の契機をつくった。

 フランス人の宣教師で東南アジアで布教に当たっていた。アドランの司教。本名はピニョー=ド=ベェーヌ。ベトナムの中部をおさめていた広南阮氏の一人である阮福暎は、西山朝に追われて苦境に立っていた。阮福暎に近づいたピニョーに対し、フランスの支援を要請、ピニョーは阮福暎の息子を連れてフランスに戻り、ルイ16世に支援を要請した。フランスの支援は得られなかったが、彼自身が義勇軍を組織し阮福暎を助けた。1799年の阮福暎が西山党の拠点クィニヨンを攻撃する際も同行し、暑さと疲労で死亡した(58歳で)。
 その後、阮福暎はタイの軍事的な支援もあってベトナムに戻り、1802年に西山朝軍を破ってハノイに入城し、フエで即位して阮朝を創始した。阮朝の成立時のピニョーの活動は、後のフランスのインドシナ出兵(フランス=ベトナム戦争)以降のインドシナ植民地形成に際し、口実を与えた。

Episode ベトナムとフランス革命

 西山の反乱から阮朝が成立したベトナム史の大きな転換期はフランス革命と同時期であったが、また直接関連があった。阮福暎を助けようとしたピニョーは、1787年に阮福暎の4歳の息子カンを伴ってパリに行き、ルイ16世に謁見して支援を訴えた。エキゾチックな服装の幼い王子を伴った宣教師の活動は宮廷で評判となり、ベルサイユでフランス・ベトナム攻守同盟条約が締結され、軍隊の派遣が約束された。その見返りは、フランスにダナン港とプロコンドル島を割譲することであった。ところがインドのポンディシェリのフランス総督が軍事支援に反対し(ピニョーが帰途立ち寄ったとき、総督の愛妾を非難したのが原因といわれる)その約束は履行されなかった。やむなくピニョーは自力で義勇兵を組織して1789年にベトナムに戻った。その年、フランス革命が勃発し、国としての支援はついに実現しなかったが、ピニョーの提供した最新鋭武器を使った阮福暎が勝利をものにすることができた。<『ベトナム民族小史』松本信広 岩波新書 p.124、『ヴェトナム史』アンドレ・マソン 文庫クセジュ p.56>
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松本信広
『ベトナム民族小史』
岩波新書