フエ(ユエ)
中部ベトナムの都市。17世紀から阮氏の広南国、さらに阮福暎が立てた阮朝の首都となった。19世紀後半、フランスが侵出、この地で締結したフエ条約でベトナムを保護国とした。
フエ GoogleMap
黎朝の力が衰えた17世紀、武将の一人阮氏(グェン)は1687年に地方政権をこの地に建て、広南国(クアンナム)と言われるようになった。ハノイの武家政権鄭氏(チン)と対立、ベトナムは分裂して争いが続いた。
18世紀後半のベトナムで勃発した農民反乱である西山の乱(タイソンの乱)で成立した西山朝の北平王阮文恵がここを押さえた。兄の阮文岳はクウィニョン、弟阮文侶はサイゴンでそれぞれ王と称した。
阮福暎が都とする
1802年に西山朝を倒してベトナムを統一した阮福暎は、阮朝を建て、フエをその都とした。1804年には清朝に朝貢し、国号を越南と改め、フエに中国式の王宮を建設した。フランスの侵出
ヨーロッパ資本主義列強のアジアへの植民地獲得競争が激しくなった19世紀後半、ナポレオン3世(第二帝政)のフランスは、1858年からインドシナ出兵を開始した。第二帝政は普仏戦争の敗北で崩壊し、フランスは第三共和政となったが、植民地拡大の動きは止まず、特にインドシナではベトナム侵略を続けた。1883年8月、フランスは第1次フエ条約でベトナムを事実上の保護国とし、さらに1884年6月には第2次の条約を締結してベトナム保護国化を強行した。これに対してベトナムに対する宗主権を主張してた清朝が抗議し、翌年には清仏戦争となり、清軍は果敢に戦ったが敗れ、フランスと清の間で1885年6月、天津条約が締結され、清はベトナムがフランスの保護国となることを認めた。こうして、二次にわたるユエ条約は、ベトナムがフランスの植民地となることをもたらしたこととなる。なお、第二次世界大戦後に、フエはベトナム戦争で戦場となり、破壊されたが、現在は復興が進み、阮朝時代の遺跡を中心に世界遺産に登録されている。
世界遺産 フエの建造物群
1802年に阮福暎が阮朝の旧都を新たな都として建設した。ベトナム史で、ハノイやサイゴン(ホー=チ=ミン市)と並ぶ、政治的中心地であった。阮福暎(嘉隆帝)はこのとき、サイゴンの太和殿をフエに移築し、明・清の紫禁城を模して、その4分の3に縮小した王宮が建設したという。ベトナム戦争で破壊されたが、現在、ユネスコによって歴史的景観の復旧が進められている。 → ユネスコ世界遺産のページ フエの建造物群へ