チャルディランの戦い
1514年、サファヴィー軍との戦いでオスマン軍が火器を使用して勝利した。
1514年、アナトリア高原東部のチャルディランの野で、セリム1世のオスマン帝国軍と、イスマーイール1世のサファヴィー朝軍が激突した戦い。結果的にはオスマン軍のイェニチェリ軍団が鉄砲などの新しい武器を利用し、サファヴィー朝のキジルバシュ(トルコ系遊牧民からなる騎兵部隊)の突撃を食い止め、オスマン軍の勝利となった。
イェニチェリの鉄砲隊とキジルバシュの騎兵の闘い 小アジアまで遠征してきたサファヴィー軍の将軍は兵力も少数であるので、オスマン軍の布陣が終わる前の奇襲を提案したが、イスマーイール1世は「王と王の戦い」でメンツを重んじ、奇襲を避け敵の布陣を待って攻撃するという正攻法をとったため、火器の威力の前に勝機を逸したと言われる。この戦いでサファヴィー朝の西進はくい止められ、鉄砲という新しい武器の前でキジルバジというトルコ系騎兵に依存する軍事力の限界が示された。その後もシリア、イラクをめぐってオスマン帝国とサファヴィー朝は攻防を繰り返すこととなる。<『パクス・イスラミカの世紀』新書イスラームの世界史2 講談社現代新書 1993 p.80 羽田正執筆分>
またこの戦いは、イェニチェリ軍団の鉄砲が威力を発揮した戦いとしても重要である。鉄砲は日本では1575年の長篠の戦いで織田信長が、武田の騎馬部隊を破り、さらに1594年のオランダ独立戦争でヨーロッパでも組織的に使用されるようになり、17世紀の三十年戦争で一般化するが、それに先立つ例となった。
イェニチェリの鉄砲隊とキジルバシュの騎兵の闘い 小アジアまで遠征してきたサファヴィー軍の将軍は兵力も少数であるので、オスマン軍の布陣が終わる前の奇襲を提案したが、イスマーイール1世は「王と王の戦い」でメンツを重んじ、奇襲を避け敵の布陣を待って攻撃するという正攻法をとったため、火器の威力の前に勝機を逸したと言われる。この戦いでサファヴィー朝の西進はくい止められ、鉄砲という新しい武器の前でキジルバジというトルコ系騎兵に依存する軍事力の限界が示された。その後もシリア、イラクをめぐってオスマン帝国とサファヴィー朝は攻防を繰り返すこととなる。<『パクス・イスラミカの世紀』新書イスラームの世界史2 講談社現代新書 1993 p.80 羽田正執筆分>
またこの戦いは、イェニチェリ軍団の鉄砲が威力を発揮した戦いとしても重要である。鉄砲は日本では1575年の長篠の戦いで織田信長が、武田の騎馬部隊を破り、さらに1594年のオランダ独立戦争でヨーロッパでも組織的に使用されるようになり、17世紀の三十年戦争で一般化するが、それに先立つ例となった。