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サファヴィー朝

16世紀初め、神秘主義教団サファヴィー教団がイランに建国した国家。シーア派の十二イマーム派を国教とし、スンナ派のオスマン帝国、ムガル帝国と抗争した。

 1501年イラン北西部のアゼルバイジャン地方を拠点に台頭した神秘主義教団(スーフィー教団)のサファヴィー教団の指導者イスマーイール1世が建国し、イラン全域を支配した国家。トルコ系遊牧部族民からなる騎兵集団のキジルバシュを軍事力とし、シーア派の分派である十二イマーム派を国教として強大な統一国家を建設、特に16世紀末のアッバース1世の時に、首都イスファハーンが交易とシーア派学芸で栄えた。 → イランのシーア派

成立

 15世紀のイランでは、ティムール朝の衰退によって混乱が続いていたが、その末になって神秘主義教団のサファヴィー教団が台頭、その長のイスマーイールは、1501年にアゼルバイジャンを制圧し、トルコ系遊牧民の騎兵部隊(キジルバシュ)を戦力として、その後10年間に全イランをほぼ統一、シャー(国王)としてイスマーイール1世を称し、サファヴィー朝を建国した。都はタブリーズとした。

シーア派国家となる

 そしてシーア派(の中の十二イマーム派)をイランで初めて国教とし、サファヴィー朝のシャーは、「隠れイマームの代理」として統治するものとされた。シーア派のサファヴィー朝の成立は、西隣のオスマン帝国、東北のシャイバニ朝というスンナ派国家の脅威となった。シーア派信仰が強まると共に、神秘主義教団としての性格は次第に弱まっていった。 → イラン シーア派国家の成立

オスマン帝国との抗争

 オスマン帝国のセリム1世は、大軍を率いてイランに遠征、1514年、タブリーズの西北のチャルディランの戦いで両軍が激突、サファヴィー軍も健闘したが、鉄砲で武装したイェニチェリ軍団によって敗れた。サファヴィー朝はその後もオスマン帝国との抗争を続け、一時タブリーズを占領されるなどした。またキジルバシュが地方の部族を率いてシャーの統制から離れ、一時危機に陥った。

アッバース1世の最盛期

 サファヴィー朝を再建したのが16世紀末に現れたアッバース1世である。彼はまずキジルバシュ勢力を抑えるため、奴隷兵などからなる常備軍を整備し、また親衛隊を育成して皇帝権力を強め、側近を各地に派遣して中央集権体制を回復させた。国力を回復させたアッバース1世は、アゼルバイジャンのタブリーズやイラクをオスマン帝国から奪還し、また当時始まっていたポルトガルの侵出により奪われていたペルシア湾入口のホルムズ島からその勢力を1622年に駆逐した(その際にはイギリスの助力を得たとされている)。さらに翌1623年には、オスマン帝国と戦い、バグダードを占領している。
 こうして帝国の最盛期を迎えたアッバース1世は1597年に新都イスファハーンを造成、貿易を奨励し、絹織物、ペルシア絨毯の輸出などを奨励し、その宮廷は大いに栄えた。絹貿易ではアルメニア人商人が中国、ヨーロッパを結ぶ交易網を築き、活動した。

衰退

 その後、宮廷の宦官や後宮の政治介入があって次第に衰退し、1722年にアフガン人(スンナ派)の侵攻を受けて壊滅した。サファヴィー朝はその後、トルコ系軍人ナーディル=シャーによって擁立されて再興されたが、結局1736年にナーディルがアフシャール朝を建国したため完全に滅亡する。

サファヴィー朝の特質

 サファヴィー朝は当初はトルコ系遊牧民の軍事力に依存する国家であったが、スンナ派であるオスマン帝国との抗争を通じて次第に穏健なシーア派である十二イマーム派の信仰によってイラン人として結束する意識が定着し、後のイラン国家の形成に重要な意味を持っていた。 → カージャール朝

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書籍案内

永田雄三/羽田正
『成熟のイスラーム社会』
世界の歴史15
1998 中公文庫