マラーター王国
インド北西部のヒンドゥー教勢力。ムガル帝国と戦ったシヴァージーが1674年に建国した。アウラングゼーブの攻勢により衰えたが、イギリスの侵攻に対してはマラーター同盟を結成して抵抗した(マラーター戦争)。
マラーター(マラータ族ともいう)とはデカン高原の西北部マハラーシュトラ地方のヒンドゥー教徒のカースト集団の一つで、カーストとしては高い方ではなかったがその上層部はザミンダール(徴税権を認められた地主)層を構成し、デカンのヒンドゥー教国の戦士として重要な存在であった。彼らはムガル帝国の侵攻に対し激しく抵抗した。
マラーター王国の中核はマラーター・カーストと名乗る人々でカースト意識が強く、その他にマラーティー語という共通の言語、バクティ信仰という共通の信仰でつながっていた。ムガル帝国がアウラングゼーブ帝が1707年に死去すると急速に衰退したために、マラーター王国は勢いを盛り返していった。
シヴァージーによる建国
特にマラーターの英雄といわれたのが、シヴァージーで、ゲリラ戦法によってムガル帝国に抵抗した。ムガル帝国のアウラングゼーブ帝はマラーター王国討伐に全力を挙げ、自らもデカンに出兵した。シヴァージーは一旦捕らえられたが脱出し、マラーター勢力を結集してムガル帝国にあたるためヒンドゥー帝国の建設をめざし、1674年にマラーター王国をデカン高原西部に建国した。マラーター王国の中核はマラーター・カーストと名乗る人々でカースト意識が強く、その他にマラーティー語という共通の言語、バクティ信仰という共通の信仰でつながっていた。ムガル帝国がアウラングゼーブ帝が1707年に死去すると急速に衰退したために、マラーター王国は勢いを盛り返していった。
マラーター同盟の結成へ
シヴァージーの死後、その直系は力を失い、実権は宰相(ペーシュワー)に移った。1720年に弱冠20歳で宰相となったバージー=ラーオ(~1740年)はムガル帝国が衰退していることを見抜き、軽騎兵隊を主力としたマラーター軍を編成して積極的に遠征を繰り返し、各地で重装備のムガル軍を翻弄しうち破った。その征服活動の将軍として登用された若い世代から、シンディア家、ホルカル家、ボーンスラ家、ガーイクワール家などの有力諸侯がうまれ、国内に割拠するようになった。このようなマラータ王国の有力諸侯をマラーター諸侯といい、彼らはマラーター同盟を結成して、デカン高原西部を中心とした独立した地方政権となった。 → マラーター戦争