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マラーター同盟

インドのデカン高原のヒンドゥー教諸国同盟。ムガル帝国から自立し有力であったが、イギリスの進出に抵抗し、3次にわたるマラーター戦争で滅ぼされた。

 マラーター王国シヴァージーの死後、ムガル軍に敗れ滅亡しかかったが、アウラングゼーブ帝の死(1707年)によって息を吹き返し、18世紀にはいると再び強大となり、マラーター勢力(マラーターとは農民層を中心としたカースト集団の一つで、当時はムガル帝国に服さないヒンドゥー教の地方政権となっていた)に属する諸侯とマラーター同盟を結成し、デカン高原周辺に勢力を広げ、デリーのムガル政権を脅かすようになった。

勢力拡張と統治機構の整備

 マラーター同盟は次第にシヴァージーの子孫の王家に代わり、宰相(ペーシュワー)を中心に有力な諸侯が国内に配置され、それら有力なマラーター諸侯の連合体としてまとまっていった。マラーター同盟軍はデカン高原だけでなく、ベンガル、カルナータカ、ラージャスターンなどにも遠征軍を送り、1752年にはムガル帝国の都デリーに入城し、ムガル皇帝の保護者となった。これによってマラーター同盟は実質的にムガル帝国の後継国家となり、その権勢を極めることとなった。
 マラータ同盟は遠征を進める一方で、行政機構の整備を進め、カマーヴィースダールという地方官を創設し、税の査定・徴収、紛争の調停、農業の振興などを職務として宰相政府と文書で密接に連絡を取りながら行政を行った。これは後のイギリスのインド統治でもうけられた収税官の前身となったと言われている。<中里成章他『ムガル帝国から英領インドへ』世界の歴史14 1998 中央公論社 p.264>  しかし、マラーター同盟の最盛期は1750年代で終わり、1761年にアフガニスタンからインドに侵入したドゥッラーニー朝のアフマド=シャーとのパーニーパットの戦い(1526年の戦いとは別)で大敗したことで、宰相の権威が弱まって有力氏族が独立傾向を強め、同盟の求心力が失われ衰退が始まった。マラーター同盟が分裂しつつあった時期にイギリス東インド会社によるインド支配がベンガル地方から始まり、それがデカン高原に及ぶようになった。

ムガル皇帝代理となる

 マラータ同盟はアフガン勢力に一時北インドを抑えられて後退したが、1769年から再び北進を開始し、アフガン勢力などを破り、1771年にはマラーター同盟の部将マハーダジー=シンデがデリー城を奪回、1784年に皇帝代理(ワキール)という称号を与えられ、ムガル帝国宮廷の実権を掌握した。ムガル皇帝は名目だけとなり、マラーター同盟がインドの最高権威を実質的に継承したことになる。

イギリスとのマラーター戦争

 イギリスはマラーター同盟の宰相の地位を巡る争いに介入して、その勢力をそぐことを意図していた。1775年に始まった第一次から1817年に起こった第三次まで、三次にわたるマラーター戦争によって侵略を進め、マラーター同盟は1818年の第3次マラーター戦争の敗北によって滅亡した。
 宰相(ペーシュワー)の領地はイギリス東インド会社直轄領に編入され、イギリスに従属した有力諸侯は藩王国として存続したが、事実上のイギリスの保護国という立場に転化した。この1818年のマラーター同盟の敗北によって、イギリスはインド亜大陸の大部分を征服し、残るは北西部のシク教徒のシク王国だけとなった。 → イギリスのインド植民地支配(19世紀後半)