ムガル帝国
1526年、アフガニスタンから侵攻したバーブルがデリーに建国したイスラーム国家。16世紀後半のアクバル帝の時に基礎が築かれ、17世紀後半のアウラングゼーブ帝時代に最盛期となり、ほぼインド全域を支配したが、ヒンドゥー教徒との融和策を廃棄したことから衰退し、18世紀にはイギリス・フランスの侵攻を受けて弱体化し、1857年のインド大反乱が起こり、翌年滅亡した。
1526年にパーニーパットの戦いでロディー朝を破ったバーブルがデリーに入り、建国した。イスラーム教(スンナ派)を奉じる。公用語はペルシア語が用いられた。文化面では、デリー=スルタン朝に始まるイスラーム文化とインド文化の融合が進み、インド=イスラーム文化が開化した。
帝国の成立
バーブルの頃は、まだデリー周辺を支配するに過ぎず、また第2代のフマーユーンはベンガル地方のアフガン勢力によってデリーを追われ、北インドにはスール朝が成立した。1555年にフマーユーンがデリーを奪還し、ムガル帝国支配を復活させた。16世紀後半の第3代アクバル帝の時に現在の北インド、パキスタン、アフガニスタンの一部、バングラディシュを含む領域を支配するようになった。帝国の全盛期
第3代アクバルは新たに都をアグラ(アーグラー)に建設し、マンサブダール制などを整備して帝国の官僚組織を整備し安定した支配を実現した。またアクバル帝は特にインドの多数派であるヒンドゥー教徒との融和に意を注ぎ、1564年に非ムスリムへの人頭税(ジズヤ)を廃止するなどの融和策を採った。続くジャハンギール、シャー=ジャハーンの17世紀前半までが全盛期。シャー=ジャハーンの時、デリーに新都を築き、遷都した。帝国の転換期
ムガル帝国は圧倒的に多いヒンドゥー教徒を、征服者であるイスラーム教徒が支配するという形態であるため、これまでの皇帝は宗教的に寛容策をとらざるを得ず、ヒンドゥー教徒との融和を図り、国家の安定を図ったが、17世紀後半のアウラングゼーブ帝の時代から、イスラーム教(スンナ派)の立場を明確にし1679年にジズヤを復活させ、それに反発したヒンドゥー教徒などに対する弾圧をはじめたので、様々な問題が生じてきた。デカンのマラーター王国、パンジャブのシク教徒などがムガル帝国に抵抗し、次第に地方政権として自立するようになる。ヨーロッパ勢力の進出
またポルトガルのインド進出は16世紀に著しくなったが、それはインド商人との商取引にとどまり、ムガル帝国にとっても深刻な脅威ではなかった。しかし、シャー=ジャハーンの17世紀から、イギリス東インド会社とフランス東インド会社の商館がインドに置かれ、まず経済的な面での進出を開始した。ムガル帝国の衰退と滅亡
18世紀中頃、イギリス東インド会社によるインド植民地化が進み、ムガル帝国の領域は縮小、1858年のインド大反乱が鎮圧された際に滅亡した。
イギリスの植民地支配
18世紀には、英仏の植民地戦争がイギリスの覇権の確立で終わり、イギリスの綿製品の流入でインドの綿織物生産は打撃を受け急速に植民地化していく。1757年のプラッシーの戦いを契機にイギリス東インド会社による支配が強まり、マラーター戦争、マイソール戦争、シク戦争など19世紀前半までにインド亜大陸の多くを支配するようになり、他には有力な地方政権が藩王国としてイギリスから一定の自治を認められていた。この間、ムガル皇帝はデリーとその周辺のみを支配する、名目的な権威を保有するにすぎなくなった。
インド大反乱
その状況の下で、1857年、イギリス東インド会社のインド支配に反発したシパーヒーは反乱を起こし、デリーに終結してムガル皇帝バハードゥル=シャー2世を擁立した。これがインド大反乱の勃発である。ムガル皇帝には、依然としてインドの統一の象徴として、権威を保っていたといえる。反乱は全国に広がり、各地の反乱軍も一時は勝利をしめるなど、イギリスのインド支配は大きな危機に直面したが、会社軍は北西インドのシク教徒などを動員して態勢を立て直し、ついにデリーを陥落させた。
ムガル帝国の滅亡
ムガル帝国の皇帝は、プラッシーの戦い以来、その統治は名目的なものとなり、実態はイギリス東インド会社から年金を支給されて存続しているに過ぎなくなっていた。インド大反乱では反乱軍によってインドの象徴として担ぎ出されたが、その反乱が鎮圧されたことで、ついに名目的な皇帝の地位も失うこととなった。
イギリスは1858年、インド統治法によってイギリス東インド会社を解散し、インドをイギリス政府が直接統治することとするとともに、ムガル帝国最後の皇帝バハードゥル=シャー2世を捕らえ、ビルマに流刑とした。これによってムガル帝国は名実ともに滅亡した。