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エスパニョーラ島

15世紀末、スペイン人が初めて入植した西インドの島。砂糖プランテーションが導入されインディオはほぼ絶滅した。黒人奴隷が人口の大半を占めるようになる。17世紀にフランスが進出してサンドマング島といわれるようになり、18世紀末にトゥーサン=ルヴェルチュールに指導された黒人による独立運動が起こり、1804年に西半分がハイチとして独立した。東半分のスペイン領は1819年にドミニカ共和国として独立した。

スペインによる支配

エスパニョーラ島 GoogleMap

西インド諸島でキューバに次いで二番目に大きな島。1492年に西インド諸島に到達したコロンブスが、この地が豊であることから上陸し、探検の拠点を設けた。以後、スペインによる植民地支配の西インド諸島経営の中心地となり、多くの入植者が来島し、現地のインディオの土地や人命を奪っていった。そのため、同島のインディオ人口は急減し、ほとんど絶滅した。コロンブスはこの島の総督に任命されたが、部下の反乱などがあいつぎ、罷免された。次の総督オバンドに従ってこの島に来たラス=カサスは、スペイン人の非人道的な征服活動を目の当たりにして衝撃を受け、後にドミニコ会の宣教師となってキリスト教布教に努める一方、本国のカルロス1世に熱心にインディオの悲惨な状態を告発した。その書が『インディアスの破壊についての簡潔な報告』である。

砂糖プランテーション

 1493年、コロンブスは西インド諸島への第二回航海で、金の探索を諦め、家畜・野菜・小麦・大麦・ブドウ・オレンジなどの苗木と共に、途中の停泊地カナリア諸島からサトウキビの苗木を積み込んだ。これこそ、旧世界から新世界への最大の「贈り物」となったのだった。エスパニョーラ島はカリブ海砂糖経済の揺籃の地となった。
 1516年、ゴンサロ=デ=ペドーサによってエスパニョーラ島に最初の製糖工場が建設された。これによってサトウキビ栽培農園と砂糖精製工場の結びついた砂糖プランテーションが始まった。この最初の製糖はトラピチェ型といい馬・牛・奴隷が横木を押て製糖機の車軸を廻してサトウキビから砂糖を絞り出す方式であったが、次第にインヘニオ型という水力を利用する方式に変化し凄惨量が飛躍的に増えた。そのためサトウキビ畑を拡張し多数の黒人奴隷を使役する必要がでてきた。エスパニョーラ島の製糖業はジャマイカ、プエルト=リコ、キューバへと広がり、カリブ海から大陸まで進出していった。<エリック=ウィリアムズ/川北稔訳『コロンブスからカストロまで』1970 岩波現代文庫 2014 p.19-24>

フランスの進出

 エスパニョラ島はスペインが西インド諸島で最初に拠点としたところであった。16世紀は西インド諸島、カリブ海域はスペインの独占状態であったが、17世紀になるとイギリス、フランス、オランダなどが進出してスペインの独占を脅かすようになった。エスパニョーラ島には砂糖プランテーションが作られ、アフリカから黒人奴隷が導入されてインディオは姿を消し、インディオの島から一変してしまった。スペイン人は次第にその活動をキューバに移し、さらに駐米アメリカ大陸に進出していった。その間にこの島はフランスとイギリスが支配権をめぐって争い、島の西側はフランス人が占拠する状態となった。
 1697年、ヨーロッパにおけるイギリス・スペインとフランス(ルイ14世)のファルツ戦争と新大陸におけるイギリスとフランスの植民地戦争であるウィリアム王戦争の講和条約として締結されたライスワイク条約で、フランスは占領したこの島(フランスはサンドマング島と呼んだ)の支配を承認された。

ハイチとドミニカの独立

 18世紀末に島の西部のフランス領サンドマングの黒人たちがトゥーサン=ルヴェルチュールに指導されて独立運動を開始し、1804年にラテンアメリカ地域で最初、しかも黒人の国家としても最初の共和国であるハイチ共和国として独立した。  東半分は1819年にドミニカ共和国として独立宣言したが不安定で、ハイチの支配・スペイン支配の復活の後、1865年からアメリカの実質的な勢力圏となった。その後アメリカの支援を受けたトルヒーヨ独裁政権(1930~60年)が続き、その後も不安定な情勢が続いた。

コロンブス以前のエスパニョーラ島

 『インディアスの破壊についての簡潔な報告』によると、コロンブス以前のエスパニョーラ島には五つの大きな王国と王がいた。そのうちの一つマグワー王国のシバオ地方では金が産出していた。そのグワリオネクス王は温厚、善良でカスティリャ王に服従を誓った。ところがあるキリスト教徒のスペイン人司令官がその王妃を犯した。王は復讐もせず臣下のひとりの領主のもとに身を隠した。しかしキリスト教徒は戦争を仕掛けて王を捕らえ、鎖と足枷をつけて本国に連行しようとした。しかし船は途中で難破し、多くのキリスト教徒が王とたくさんの金と共に海中に沈んだ。
 もう一つのマリエーン王国のグワカナガリー王はコロンブスが渡来したときに丁重に歓迎し、コロンブス一行の船が沈んでしまうとあらゆる援助を与えて船を準備した。しかしキリスト教徒たちの行う虐殺や非道な所行を逃れて山中に逃げ込み、結局殺されてしまった。そのほかの国々の王や女王も、それぞれ追い立てられ、土地を奪われた上で殺されたり、本国に連行される途中、嵐で海に沈んだりした。残されたインディオの中には抵抗したものもいたが見せしめのため殺され、残ったものは(エンコミエンダ制で)入植者に分配された。<ラス=カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』染田秀藤訳 岩波文庫 1976 p.29-38>
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ラス=カサス/染田秀藤訳
『インディアスの破壊についての簡潔な報告』
2013 岩波文庫

エリック=ウィリアムズ
/川北稔訳
『コロンブスからカストロまで』カリブ海域史1942-1969 初刊 1970
岩波現代文庫 2014