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ファルツ戦争/アウクスブルク同盟戦争

1688~97年のルイ14世の侵略戦争の一つ。フランスとオランダ、スペイン、イギリスなどのアウクスブルク同盟との戦争で、イギリス名誉革命と同時期に展開され、北米植民地では英仏がウィリアム戦争を戦っていた。

 フランス(4)のブルボン朝絶対王政の最盛期、ルイ14世1688年に開始した侵略戦争で、ファルツ継承戦争、またはアウクスブルク同盟戦争と言われることも多い。一連の南ネーデルラント継承戦争オランダ侵略戦争に続く、フランスのルイ14世による侵略戦争の一つであった。 → ファルツ選帝侯

開戦の口実と背景

 ファルツ選帝侯カールが1685年に没した際、ルイ14世は弟の二番目の妻がカールの妹であったところから、その領土の継承権を主張した(呆れるほど強引ないいぶんではあります)。同じ年、ルイ14世はナントの王令を廃止してプロテスタント弾圧に乗り出したので、プロテスタント諸国を中心として周辺諸国は大きな脅威を感じた。オランダのウィレム3世が提唱して、オランダ・スウェーデンなど新教国と神聖ローマ皇帝・スペインの旧教国が結束してアウクスブルク同盟を結成した。フランスという軍事大国の覇権主義に対する、集団的自衛権の行使といったところである。そのころ、1683年にオスマン帝国の第2次ウィーン包囲が行われており、その脅威はまだ去っていなかったので、神聖ローマ帝国(オーストリア)は東西二面で戦わなければならなかった。

名誉革命と同時進行

 1688年9月、フランス軍はファルツ侵攻を開始、アウクスブルク同盟国軍と戦争を開始した(オスマン軍が引き上げる前に攻撃した)。ところがこの年11月、イギリスで名誉革命が始まり、オランダ総督ウィレム3世がイギリスに上陸、翌年イギリス王ウィリアム3世となり、イギリスもアウクスブルク同盟に加わることになった。こうしてこの戦争はフランス対アウクスブルク同盟というヨーロッパ各国が関わる戦争となり、翌年にはフランス軍はライン川を越えてハイデルベルク、マンハイムで焦土作戦を敢行して、同盟国軍を慄然とさせた。その後も戦場はライン川流域を中心にヨーロッパ各地に広がり、海上でも両海軍が衝突を繰り返した。
 一方、ルイ14世は名誉革命で追われてフランスに亡命したジェームズ2世を支援して、1690年にはアイルランドに侵攻させたが、ウィリアム3世によってボイン川の戦いで敗れ、イギリス復帰はならなかった。

ドイツ側から見た戦争

 ファルツ戦争はフランス側から語られる場合が多いが、ドイツ側からすれば、ルイ14世によるラインラント侵略戦争であり、ラインラントにとっては三十年戦争以来の戦禍であった。
(引用)ルイ14世は、武力による領土拡張政策によってフランスの国威を大いにあげた人物として知られている。フランスにとっては偉大なる“太陽王”であったであろうが、武力侵入を受けた近隣諸国にとってはたまったものではなかった。ことにラインラントは、マインツケルン、トリアーなどかなりな力を持つ教会勢力はあったが、それとても武力は大したものではなかった。その他の群小封建小君主の軍隊はものの数ではなかった。その上にこれらの諸小国の間には軍事的に団結する慣習はなかった。これに反してフランスはヨーロッパ第一の大国であり、その軍事的力量は抜群だった。ラインラントは、飢えた猛虎の前の子羊のようなものだった。<笹本駿二『ライン河物語』1974 岩波新書 p.100>
 フランス軍はアルザス、ファルツ地方から、低ライン地方まで劫掠してまわり、上ラインのシュパイヤーでは、フランス兵はドイツ皇帝の墓をあばいて埋めてあった財宝を略奪した。ライン川中流東岸に並ぶ古城は、たったひとつマルクスブルク城を残して全部が破壊された。これらのフランス兵の野蛮な行為は、ラインラント住民に強い反フランス感情をもたせることとなった。

新大陸ではウィリアム王戦争が展開

 さらに翌1689年5月からはアメリカ大陸でのイギリスとフランスの植民地戦争であるウィリアム王戦争が始まっている。ウィリアム王戦争はインディアンの帰属をめぐって両国が激しく争ったが、決着がつかず、97年まで続いた。またインドにおいては、このころポンディシェリに拠点とするフランスと、マドラスのイギリスとの抗争がきびしくなった。このように、この時期の英仏の戦争は全世界的な規模に広がっていた。

ライスワイク条約

 ファルツ戦争=アウクスブルク同盟戦争は一進一退を繰り返して長期化し、9年間にも及んだ。そのためこの戦争は九年戦争とも言われている。次第に厭戦気分が生まれ、ようやく1697年、ライスワイクの和議が成立して戦争が終わった。ライスワイク(リズウィグとも表記する)条約で、フランスが各国に認めた内容は次のようなものであった。
  • ルイ14世はファルツ選帝侯の相続権は放棄する。そのかわり金を受け取る。
  • 神聖ローマ帝国に対して、占領地は返還するがアルザス地方のシュトラスブルク(ストラスブール)はフランス領とする。
  • スペインに対して、占領地エスパニョーラ島の東半分(現在のドミニカ共和国)は返還するが、西半分(現在のハイチ)はフランス領(サン=ドマング)とする。
  • イギリスに対して、ウィリアム3世の王位継承を承認する。
  • オランダに対して、通商上の特恵を与える。
 フランスにとっては孤立した戦いとなり、9年にわたる戦争であったにもかかわらず得るところが少なかった。そのため、ルイ14世にたいする民衆の不満も強まってくる。ルイ14世の安定した絶対王政が、晩年にかけて動揺しはじめるきっかけとなった。
注意 ファルツ戦争(ファルツ侵略戦争、プファルツ戦争、アウクスブルク同盟戦争)は、その名称からして狭い範囲に限定された戦争と誤解しやすい。また、教科書などでもルイ14世の一連の侵略戦争の一つとしてしか扱われていない。しかし、上で見たとおり、この戦争はヨーロッパの各国が関わり、英仏の対立は新大陸とインドにまで及んでいる、広範囲に展開された世界戦争の最初の例であり、しかも9年間も続いた戦争だった。また、名誉革命やオスマン帝国の圧力との関係している、世界史的にも重要な戦争であった。18世紀の一連のヨーロッパ列国間の戦争と植民地戦争が連動するという関係は、この戦争で既に始まっていることを押さえておこう。 → 英仏植民地戦争/英仏百年戦争(第2次) スペイン継承戦争

ファルツ(プファルツ)選帝侯 参考事項

現在のラインラント=ファルツ州 GoogleMap

 ファルツ Pfalz はプファルツとも表記し、フランスにほど近いライン川中流の西側にあたる重要な地域(現在はドイツのラインラント=ファルツ州、現在の州都はマインツ)である。ファルツとはもともと王宮の意味で、12世紀にライン宮中伯領が成立、ファルツがこの地の地名となり、神聖ローマ帝国=ドイツ有力なの領邦の一つとなり、1356年に選帝侯の地位を得て諸侯国(ラント)となった。
三十年戦争 17世紀の三十年戦争の時代のファルツ選帝侯であったフリードリヒ5世は熱心なカルヴァン派の信者であったのでプロテスタント諸侯連盟の盟主となり、カトリック諸侯連盟と戦った。1619年にボヘミア王のハプスブルク家フェルディナント2世が神聖ローマ帝国皇帝になると、反発したボヘミアの新教徒はフェルディナント2世を廃し、ファルツ選帝侯フリードリヒ5世をボヘミア王に選出した(ベーメンの反乱)。フリードリヒ5世はボヘミアに赴き戴冠したが、翌1620年のビーラー=ホラの戦いでカトリック側の皇帝・バイエルン連合軍に敗れてしまった。フリードリヒ5世はオランダに亡命、ファルツ地方の東部(上ファルツ)はバイエルン領とされ、選帝侯の地位もバイエルン公に奪われた。後にウェストファリア条約により、フリードリヒ5世の跡継がファルツの支配権を回復し、改めて選帝侯に任じられたが、バイエルンも選帝侯位もそのままとされたので、以後、選帝侯は8人となった。
 また三十年戦争では、ファルツ地方はスペイン軍・カトリック連合軍に占領、略奪され、中心都市のハイデルベルクも荒廃した。ファルツ選帝侯が設立したドイツ最古の大学のひとつハイデルベルク大学もそれによって荒廃し、復興したのは19世紀のことであった。<坂井榮八郎『ドイツの歴史百話』2012 刀水書院 p.118>
 1688~97年のファルツ戦争では、フランスのルイ14世による侵略を受け、ここでもハイデルベルクは戦場となり、荒廃した。しかし反仏同盟軍の抵抗によりルイ14世のファルツ選帝侯継承は認められなかった。
 ファルツ地方の東部(上ファルツ)は1628年以来バイエルン領とされていたが、1815年には残る西部(ライン・ファルツ)もバイエルン領とされたため、領邦としてのファルツは消滅した。

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