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教皇子午線

1493年、ローマ教皇が調停したポルトガルとスペインの植民地分界線。両国は再交渉の結果、翌年にトルデシリャス条約を締結した。

 コロンブスインディアス(新大陸であったが彼はインドの一部と主張していた)に到達した直後から、スペインポルトガルの勢力圏をめぐる対立が表面化した。コロンブスを派遣したスペインは、彼が発見した地に対する排他的権利を確保しようとし、ポルトガルは、1455年に非キリスト教世界における征服と貿易の独占権、異教徒の奴隷化を認めるローマ教皇教書を与えられていることを根拠に、スペインが新天地を領有することに異議を申し立てた。

ローマ教皇による国際紛争の調停

 スペインとポルトガルはともにローマカトリックを国教としていたので、ともにローマ教皇による裁定にすがろうとした。当時、キリスト教世界ではローマ教皇が国家権力の上位の権威をもち、紛争の調停に当たる権能を持っていた。スペインのイサベルフェルナンドの両王は、時のローマ教皇アレクサンドル6世に働きかけ、ポルトガルのジョアン2世も同様に自国の主張を訴えた。
 ローマ教皇は双方の主張を聞いた上で、1493年に教皇の名において一連の教書を発した。 この教皇境界線が世界最初の植民地分界線であった。

ポルトガル王の主張

 コロンブスは第1回航海で新しい陸地を発見して帰途につき、出港地スペインのパロス港をめざしたが、嵐に遭い、リスボンに緊急入港しなければならなかった。そのためコロンブスの発見はポルトガル王ジョアン2世の知るところとなった。ジョアン2世はコロンブスがポルトガルの領海を侵したとの疑いをもった。1479年にスペインとの間で締結されていたアルカソヴァス条約では、カナリア諸島はスペイン領とするがそれより南の海域と、アゾレス諸島・ヴェルデ諸島を含む東の海域はポルトガル領とすると定められていたからだった。

教皇裁定と再交渉

 ローマ教皇アレクサンドル6世の裁定の内容は、まず新発見の地に対するスペインの権利を布教権という形で認め、併せて両国の分界線を「ヴェルデ岬諸島の西方100レグア(1レグアは約5.5km)の子午線」とし、その東をポルトガル、西をスペインの領有を認めた」とされている。

教皇裁定の内容

 1493年のアレクサンデル6世の教皇子午線設定は、まだアメリカ大陸の発見とも認識されておらず、正確な経度を測定する技術もなかったから、実際にその分界線がどのようなところに引かれたのか当時の人々は判断できなかった。未知の世界をめぐってポルトガルとスペインが予め分け前を決めておくという協定であったので、両国の予測を超える様々な問題が生じた。
 その問題の一端は、教皇教書の内容にある。教書の形で3回に分かれて出されたが、その中味は曖昧な表現が多かった。現在の理解にも差があり、書物によって説明が異なる部分もあるが、総合すると次のようになろう。
  • 第一の教書(5月3日付) コロンブスによって発見された土地にたいしてスペイン王室及びその後継者が領有権を持つことを承認した。スペイン王には原住民に対しキリスト教を布教する義務を課し、何人も特別の許可なく当該地域に赴くことを禁止した。このような譲渡の権限は神の代理人である教皇の固有の権限である。
  • 第二の教書(5月4日付) 第一の教書でスペインの排他的権利を認めた範囲は、アゾレス諸島及びヴェルデ諸島の西方100レグアの距離に引かれた北極から南極を結ぶ直線である。
  • 第三の教書(9月26日付) 第一の教書が「西方(オクシデンテ)」の管轄権について定めたのに続き、ここで「東方(オリエンテ)」においても分界線を引き、スペインの東航路、ポルトガルの西航路の優先権を認める。
<教皇子午線については色摩力夫『アメリゴ・ヴェスプッチ』1993 中公新書 p.66-69 を参照>

曖昧な教皇子午線

 第二の教書の教皇子午線が最も問題だった。アゾレス諸島及びヴェルデ諸島の西方100レグアというものの、アゾレス諸島の西端は西経31°15′、カーボ=ヴェルデ諸島の西端は西経25°23′であり、それだけで約100レグア(550km)離れている。多くの世界史辞典や用語集では教皇子午線は「ヴェルデ諸島の西100レグアの子午線」としているので本稿でも従うが、常識的にはアゾレス諸島の西としたほうがよいとも思われる。
 大事なのは、ここで子午線=経線を分界線とすることが示されたことであろう。

両国の直接交渉へ

 この教皇子午線は、ポルトガルにとって不満の残るものであった。ポルトガルは教皇アレクサンドル6世がスペインのボルジア家出身だったので、スペインに有利な内容となったと疑い、この裁定に不満を持つポルトガルのジョアン2世は、ローマ教皇を介在させず、両国の直接交渉に持ち込んだ。
 ジョアン2世はカナリア諸島の南端の緯線を基準に、その北をスペイン、南をポルトガルに分けようと主張し、再交渉ではスペインに対して武力の行使の姿勢も示しながらせまったが、結局は、翌1494年、分界線をさらに370レグア西に移動させることで妥協し、トルデシリャス条約を締結した。<飯塚一郎『大航海時代へのイベリア』中公新書 1981 p.153>
 トルデシリャス条約で分界線を西に370レグア移動させたことによって、結果敵に、後に発見されたブラジルの東端がその線にかかることになる。それが分かったのは1500年にカブラルがブラジルに到達してからだ、とされているが、実はジョアン2世はその地に大陸があるという情報を得ていたので、トルデシリャス条約に合意したのだ、という説もある。  → 植民地

他国の反発

 教皇子午線、およびトルデシリャス条約によって、世界はほぼ、東(旧世界)はポルトガル、西(新世界)はスペインに帰属することとなった。しかし、この分割は他のヨーロッパの強国からは「そうすかん」をくった。いずれもそれに拘束されないという立場を取ったのである。イギリスは、1497年にカボットを派遣して北アメリカ航路開発に当たらせ、フランスのフランソワ1世は「太陽は余人のみならず私をも照らしている。世界の分割所有より私を排除する条項がアダムの意思のうちにあるものなら、是非とも拝見いたしたい」と抗議した。デンマーク王も教皇の裁定を拒んだ。<エリック・ウィリアムズ/中山毅訳『資本主義と奴隷制』1944初刊 訳本1968初刊 ちくま学芸文庫版2020刊 p.14>
 16世紀の世界分割は、事実上の占有をもって領有権を認めるという先取主義によって推進されることとなる。
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書籍案内
飯塚一郎
『大航海時代へのイベリア』
スペイン植民地主義の形成
1981年 中公新書

色摩力夫
『アメリゴ・ヴェスプッチ』
1993 中公新書