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砂糖プランテーション

16世紀以降、ブラジルで行われた黒人奴隷労働力による砂糖に特化した大農園。西インド諸島などにも広がった。

 大航海時代の16世紀以来、ヨーロッパの白人入植者によって、アジア・アフリカ・新大陸などで始まったプランテーションのなかで、ポルトガル植民地であったブラジルで始まった、現地労働力を安価に使用し、砂糖の生産に特化して行われた大農園。

ブラジルの砂糖プランテーション

 1500年にカブラルによって発見され、ポルトガル領となったブラジルでは、はじめはブラジルの名の起こりであるパウ・ブラジルという染料の原料となる木を主な産出品としていたが、入植したポルトガル人はさまざまな作物を持ち込むようになった。1530年代からサトウキビを栽培し製糖する、大農園が導入されるようになった。そこでは最も安価な労働力としてインディオを奴隷として使役する、インディオ奴隷制が始まった。

インディオの奴隷化と反抗

 ヨーロッパ人と接触が始まった時期のインディオ(トゥピー系諸語族)は400人ほどの集団を形成し、男性は狩猟、女性は焼き畑農業という分業を行っていた。ところが砂糖プランテーションでかれらに押しつけられた労働は、サトウキビの植え付けや収穫、工場内での精製の作業であり、インディオの男性には受け入れがたい仕事だったようだ。そのようなインディオに労働を無理強いしたことから早くから反抗が始まった。ポルトガル当局は反抗的なインディオを捕虜として強制的に労働させることを許可した。1560年代にはブラジル各地で大規模、無差別な「奴隷狩り」が行われた。1570年代からアフリカの黒人奴隷を導入して労働力とするようになるまでは、ブラジルの砂糖プランテーションではこのようなインディオ奴隷制が支配的形態だった。また黒人奴隷制が導入されてからも零細なプランテーションなどでは17世紀後半でもインディオ奴隷が使役されていた。<池本幸三/布留川正博/下山晃『近代世界と奴隷制―大西洋システムの中で』1995 人文書院 p.66-67>

黒人奴隷制度の導入

 1570年代からブラジルの砂糖プランテーションで黒人奴隷制が導入され、17世紀前半までに支配的形態になる。始めはポルトガル人奴隷商人によって、アフリカからの黒人奴隷が送り込まれ、苛酷な奴隷労働を強制され、本国ポルトガル(及び一時期ポルトガルを併合したスペイン)に大きな利益をもたらした。
(引用)ポルトガルは1500年にブラジルの領有権を主張し、その後50年のうちに、大規模な砂糖プランテーションの経営を開始した。砂糖プランテーションでの労働は、人類史上もっとも苛酷な労働であったと言われている。したがって、それは完全に奴隷労働の領分であった。1550年から1800年の間に、ブラジルだけでおそらく250万余りのアフリカ人奴隷を吸収したものと思われる。だが、1800年の黒人人口は100万人にすぎなかった。彼らはどこへ消えてしまったのだろうか? 大半が亡くなり、逃亡した者も少しはいた。奴隷所有者は、まじめに働く奴隷なら2年後には利益を生み出しはじめると計算した。しかし、5年ないし6年後には使い物にならなくなり、新たな奴隷が必要となった。そして、彼らの労働条件を改善したり、家族を持たせたりするより、死ぬまで働かせて、後釜に切り換える方が費用対効果の点で有利であることが明らかになった。あらゆる歴史のなかで、これほど人間の尊厳を損なった金儲けの例は稀である。<クリス・ブレイジャ『世界史の瞬間』2001 青土社 p.108-109>

西インド諸島

 西インド諸島ではエスパニョーラ島(後にフランス領のサンドマング、スペイン領ドミニカ)、キューバにサトウキビ栽培と製糖場が導入されていたが、17世紀にイギリスがバルバドス島ジャマイカ島に進出、フランスもサンドマング(1804年、独立してハイチとなる)の他にマルチニク島などで砂糖の栽培に力を入れるようになり、黒人奴隷による砂糖プランテーションで盛んに供給されるようになった。西インド諸島の砂糖はイギリス商船のアフリカ西岸―北米大陸・カリブ海域―ヨーロッパを結ぶ三角貿易によってヨーロッパで消費され(それはコーヒーの普及と重なっていた)、17世紀には西インド諸島がブラジルを抜いて、世界最大の砂糖生産地域になる。
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クリス・ブレイジャ
『世界史の瞬間』
2001 青土社