ラス=カサス
16世紀のラテンアメリカのスペイン支配の状況を告発した宣教師。『インディアスの破壊についての簡潔な報告』などを著した。
Bartolome de las Casas
1474-1566
ラス=カサスはスペインのドミニコ会宣教師で、アメリカ新大陸でのスペイン人によるインディオに対する不当な扱いを告発し、エンコミエンダ制の廃止をスペイン王カルロス1世に訴えた人物で「インディオたちの保護者」と言われる。彼の著した『インディアスの破壊についての簡潔な報告』は、当時のインディオの状況を知る上で大切な史料となっている。これは1542年に、ラス=カサスがカルロス1世の面前で開かれた審議会で発表した意見を記し、皇太子フェリペ(後のフェリペ2世)に献呈した書物であり、エスパニョーラ島(現在のハイチ)に始まり、現在のキューバ 、ベネズエラやコロンビア、ペルー、メキシコ、フロリダなどにおけるスペイン人の征服者(コンキスタドール)、入植者の非人道的な残虐行為を激しく告発し、その結果としてのインディオの急速な人口減少を報告、非道な入植者の排除とエンコミエンダ制の廃止を訴えた。カルロス1世はこの意見に動かされ、エンコミエンダ制の見直し約束したが、その廃止に反対する勢力も強く、撤廃はできなかった。
ラス=カサスは若い頃、自身でも1502年のスペインの総督オバンドのエスパニョーラ島遠征に参加し、植民に従事し、現地の状況をつぶさに見ていた。1507年からは聖職に入りドミニコ会の修道士となり、同島やキューバ島、メキシコなどで布教につとめながら、インディオの保護にあたった。また、彼はインディアスの歴史をまとめる際に、コロンブスの航海日誌を利用し、その抄録を残した。コロンブスの航海日誌の原物は紛失したので、彼の残した『コロンブス航海誌』はコロンブスの航海の重要な資料となっている。
ラス=カサスは自らもインディオの解放のため行動し、理想の村を造ろうと努力した。またその熱意に動かされた本国政府の中にも、インディオの解放を本気で考える人びとも現れ、キューバではその実験も行われた。しかし、現地のエンコミエンダ制維持を主張する入植者たちの反対運動や、飲酒を覚えたインディオたちのスペイン人に対する暴動などがつづき、ラス=カサスの実験は失敗した。しかし彼はエンコミエンダ制廃止の運動をやめず、新しく即位したカルロス1世の宮廷にも入り込んで、熱心に運動した。<増田義郎『新世界のユートピア』1971 中公文庫版 p.147-150>
ラス=カサスはその後も大部な歴史書『インディアス史』などの著作を続け、生涯をインディオの解放に捧げ1566年、92歳で亡くなった。
ラス=カサスは若い頃、自身でも1502年のスペインの総督オバンドのエスパニョーラ島遠征に参加し、植民に従事し、現地の状況をつぶさに見ていた。1507年からは聖職に入りドミニコ会の修道士となり、同島やキューバ島、メキシコなどで布教につとめながら、インディオの保護にあたった。また、彼はインディアスの歴史をまとめる際に、コロンブスの航海日誌を利用し、その抄録を残した。コロンブスの航海日誌の原物は紛失したので、彼の残した『コロンブス航海誌』はコロンブスの航海の重要な資料となっている。
ラス=カサスの『ユートピア』
ラス=カサスは1516年、インディアスにおけるインディオの問題の解決を本国の摂政シスネーロス(当時フェルナンド王が死去し、カルロス1世が幼少であったので摂政が置かれた)に提唱した。そこではラス=カサスはスペイン人入植者の居住地の周辺にインディオの村を造って、従来のスペイン人に分配・保護される関係ではなく、契約に基づいて働くパートナーとし、スペイン人には出資者として農地と牧草地を提供させるという構想を打ち出した。エンコミエンダ制の段階的な廃止と共同農村の建設を提唱ししたものであって、ちょうどそのころ、トマス=モアの『ユートピア』が出版され、人文主義(ヒューマニズム)の一つの動きであった。ラス=カサスは自らもインディオの解放のため行動し、理想の村を造ろうと努力した。またその熱意に動かされた本国政府の中にも、インディオの解放を本気で考える人びとも現れ、キューバではその実験も行われた。しかし、現地のエンコミエンダ制維持を主張する入植者たちの反対運動や、飲酒を覚えたインディオたちのスペイン人に対する暴動などがつづき、ラス=カサスの実験は失敗した。しかし彼はエンコミエンダ制廃止の運動をやめず、新しく即位したカルロス1世の宮廷にも入り込んで、熱心に運動した。<増田義郎『新世界のユートピア』1971 中公文庫版 p.147-150>
インディアス新法の勝利と挫折
1522年からはドミニコ会に加わって修道士となり、1542年に『インディアスの破壊についての簡潔な報告』をカルロス1世に提出した。その運動の成果があって、1543年には「インディアス新法」が制定され、インディオの奴隷化の禁止、エンコミエンダ制の廃止が実現した。これはラス=カサスの勝利であったが、植民地の入植者は一斉に反発し、現地では反乱が勃発、収拾がつかなくなり、「新法」はインディアスにおいて施行される場合はエンコミエンダ制廃止の条項は除外すると決定された。現地の入植者の経済活動の現実がインディオの強制労働なしには成り立たなくなっているという現実があった。こうして現地ではラス=カサスの運動は葬られた。セプルベタとの論争
カルロス1世は1550年7月、インディオに対する征服活動がキリスト教信仰上許されるかどうか、についての神学論争に決着をつけるべく、王の面前での大討論会を主催した。その席でラス=カサスは人文学者セプルベタとの大論争を展開した。セプルベタは、アリストテレスの『政治学』を論拠として、能力のない人間は他人の権利に従うべきであるとし、インディオの奴隷化を擁護した。それに対してラス=カサスはインディオの人間としての能力はヨーロッパ人と同じであり、権利においても同じである、従ってスペイン人が彼らを征服し奴隷にすることは許されないと、堂々と主張した。<ハンケ『アリストテレスとアメリカ・インディアン』1959 佐々木昭夫訳 岩波新書 >ラス=カサスはその後も大部な歴史書『インディアス史』などの著作を続け、生涯をインディオの解放に捧げ1566年、92歳で亡くなった。
黒人奴隷の導入を提案
「その生涯の初期においてラス=カサスは、インディオを、彼らを絶滅させつつある重労働から解放するために、アフリカの黒人奴隷を導入することを提案した。もっとも後になって彼はひどくこのことを後悔し、黒人奴隷制度にもインディオ奴隷制に対してと同様に「そして同じ理由によって」反対した。ラス=カサスが一時黒人奴隷制を新大陸に導入することを説いたことは、彼に反発する人びとによってさかんに取り上げられた。しかし、彼の思想は、セプルベタとの論争の時に述べた「世界のすべての民族はみな人間である」という普遍性の表明に本質が現れている。<ハンケ『アリストテレスとアメリカ・インディアン』1959 佐々木昭夫訳 岩波新書 p.11、170>