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インディアスの破壊についての簡潔な報告

宣教師ラス=カサスが16世紀のラテンアメリカのスペイン支配の状況を告発した書物。

 ラス=カサスは1514年から66年までの間に6回にわたり大西洋を横断し、エスパニョーラ島その他の地域でインディオの置かれた状況を実際に見て、インディオの自由と生存を守るためには入植者や征服者(コンキスタドール)の残虐な征服活動をやめさせ、スペイン人入植者によるインディオ酷使システムであるエンコミエンダ制を廃止する必要を痛感した。1541年には国王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)に謁見して、征服活動を即時中止することを訴えた。翌1542年末、その内容を書簡にして皇太子フェリペ(後のフェリペ2世)に報告したのがこの『インディアスの破壊についての簡潔な報告』である。<ラス=カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』染田秀藤訳 岩波文庫 1976>
※以下、ラス=カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』染田秀藤訳から、インディオに関する興味深い記事を抜粋した。

インディオという人びと

 「インディアスが発見されたのは1492年のことである。その翌年、スペイン人キリスト教徒たちが植民に赴いた。したがって、大勢のスペイン人がインディアスに渡ってから本年(1542年)で49年になる。彼らが植民するために最初に侵入したのはエスパニョーラ島(現在のハイチ、ドミニカ)で、それは周囲の広さおよそ600レグワ(1レグワは約5.6キロ)もある大きな、非常に豊かな島であった。・・・神はその地方一帯に住む無数の人びとをことごとく素朴で、悪意のない、また、陰ひなたのない人間として創られた。彼らは土地の領主たちに対しても実に恭順で忠実である。彼らは世界でもっとも謙虚で辛抱強く、また、温厚で口数の少ない人たちで、諍いや騒動を起こすこともなく、喧嘩や争いもしない。そればかりか、彼らは怨みや憎しみや復讐心すら抱かない。この人たちは体格的には細くて華奢でひ弱く、そのため、ほかの人びとと比べると、余り仕事に耐えられず、軽い病気にでも罹ると、たちまち死んでしまうほどである。・・・インディオたちは粗衣粗食に甘んじ、ほかの人びとのように財産を所有しておらず、また、所有しようとも思っていない。したがって、彼らが贅沢になったり、野心や欲望を抱いたりすることは決してない。」<同書 p.17-18>

スペイン人の破壊行為

 「スペイン人たちは、創造主によって前述の諸性質を授けられたこれらの従順な羊の群に出会うとすぐ、まるで何日もつづいた飢えのために猛り狂った狼や虎や獅子のようにその中へ突き進んで行った。この40年の間、また、今もなお、スペイン人たちはかつて人が見たことも読んだことも聞いたこともない種々様々な新しい残虐きわまりない手口を用いて、ひたすらインディオたちを斬り刻み、殺害し、苦しめ、拷問し、破滅へと追いやっている。例えば、われわれがはじめてエスパニョーラ島に上陸した時、島には約300万人のインディオが暮らしていたが、今では僅か200人ぐらいしか生き残っていないのである。・・・この40年間にキリスト教徒たちの暴虐的で極悪無慙な所行のために男女、子供合わせて1200万人以上の人が残虐非道にも殺されたのはまったく確かなことである。それどころか、私は、1500万人以上のインディオが犠牲になったと言っても、真実間違いではないと思う。」<同書 p.19-21>

エスパニョーラ島にて

 「彼らは、誰が一太刀で真二つに斬れるかとか、誰が一撃のもとに首を斬り落とせるかとか、内臓を破裂させることができるかとか言って賭をした。彼らは母親から乳飲み子を奪い、その子の足をつかんで岩に頭を叩きつけたりした。また、ある者たちは冷酷な笑みを浮かべて、幼子を背後から川へ突き落とし、水中に落ちる音を聞いて、「さあ、泳いでみな」と叫んだ。彼らはまたそのほかの幼子を母親もろとも突き殺したりした。こうして彼らはその場に居合わせた人たち全員にそのような酷い仕打ちを加えた。さらに、彼らは漸く足が地につくぐらいの大きな絞首台を作り、こともあろうに、われらが救世主と12人の使徒を称え崇めるためだと言って、13人ずつその絞首台に吊し、その下に薪をおいて火をつけた。こうして、彼らはインディオたちを生きたまま火あぶりにした。・・・(この間、残虐な火あぶりの記述があるが省略)・・・私はこれまで述べたことをことごとく、また、そのほか数えきれないほど多くの出来事をつぶさに目撃した。キリスト教徒たちはまるで猛り狂った獣と変わらず、人類を破滅へと追いやる人々であり、人類最大の敵であった。非道で血も涙もない人たちから逃げのびたインディオたちはみな山に籠もったり、山の奥深くへ逃げ込んだりして、身を守った。すると、キリスト教徒たちは彼らを狩り出すために猟犬を獰猛な犬に仕込んだ。犬はインディオをひとりでも見つけると、瞬く間に彼を八つ裂きにした。・・・インディオたちが数人のキリスト教徒を殺害するのは実に希有なことであったが、それは正当な理由と正義にもとづく行為であった。しかし、キリスト教徒たちは、それを口実にして、インディオがひとりのキリスト教徒を殺せば、その仕返しに100人のインディオを殺すべしという掟を定めた。」<同書 p.26-28> → エスパニョーラ島

レケリミエント(催告)の欺瞞

 「これまでにインディアスを統括し、インディオたちの改宗と救済を実行したり、それを命じたりするのを任務としてきた人びとは、口ではいろいろと言い、口実を設け、また偽ったけれども、結局のところ、実際には、その聖なる使命をいつもないがしろにしていた。とうとう、彼らのその有害きわまりない盲目ぶりは頂点に達し、彼らはインディオたちに対して、キリストの信仰を受け容れ、カスティーリャの国王に臣従するよう、もしそうしなければ、彼らに情容赦なく戦いをしかけ、彼らを殺したり捕らえたりすることになろう云々、という催告(レケリミエント)を行うことを思いついて、彼らはそれを作成し、また、その実行を命じることになった。人間ひとりびとりの身代わりとなってみずから犠牲になられた神の子イエスは「全世界に行って、すべての人々に福音をのべ伝えよ」(マルコによる福音書16・15)と語られた。スペイン人たちは、その御詞は自分たちの土地で平和に穏やかに暮らしている異教徒たちに対して今述べたその催告を行なうよう掟として命じられたものであると解釈した。・・・忌まわしい不吉な総督はその催告を実行するよう訓令を受けていた。・・・彼は金を持っている村の情報を入手してその村を襲撃し、金を強奪しに行くことになった時、盗賊と変わらない部下たちを先に派遣し、彼らにその催告を行うように命じた。部下たちは命令どおり行動した。インディオたちが何の心配もせず村や家にいた頃、忌まわしいスペイン人略奪者たちは夜陰をついて進み、村まで残り半レグワの所までやって来た。その夜、彼らは、自分たちだけしかいないところで、その催告を触れ回った。「ティエラ・フィルメの某村のカシーケ(領主)およびインディオたちに告ぐ。われらは神とローマ教皇、それに、この地の君主であるカスティーリャの国王についておまえたちに知らせにやってきた。ただちにカスティーリャの国王に服従せよ、云々。さもなければ、われらが即刻戦をしかけ、おまえたちを殺したり捕えたりすることになると心得よ」と。・・・スペイン人たちは村へ侵入し、大半が藁造りのインディオたちの家に火を放った。インディオたちが気付いた時は既に手遅れで、女、子供、そのほか大勢のインディオが生きたまま焼き殺された。・・・」<同書 p.46-49>

征服者は「人類最大の敵」

 「1518年4月18日にヌエバ=エスパーニャに侵入してから1530年にいたる12年の間ずっと、スペイン人たちはメキシコの町とその周縁部で、つまり、スペインと同じぐらい大きく、また、それ以上に豊饒な王国が4つも5つもあった広さ約450レグワの領土で血なまぐさい残忍な手と剣とでたえず殺戮と破壊を行った。・・・結局彼らは400万以上の人々を虐殺した。このようにして、スペイン人たちは、彼らが征服(コンキスタ)と呼んでいたことを行いつづけた。征服(コンキスタ)とは残忍な無法者たちが行う暴力による侵略のことであり、それは神の法のみならず、あらゆる人定の法にも背馳し、トルコ人がキリスト教の教会を破壊するのに等しいか、あるいは、それ以上にひどい行為である。しかも、その400万の中には、既述したような奴隷状態の中で日々迫害や圧政を加えられた結果、死んでしまったインディオや、今なおそのような状態の中で殺されているインディオの数は含まれていないのである。とりわけ、どんなに言葉をつくし、多くの情報を手に入れ、また、ありとあらゆる手段を駆使しても、誰の目にも明らかな人類の最大の敵であるあのスペイン人たちが、ヌエバ=エスパーニャの様々な地方でたえず犯し続けてた驚くべき所業を語りつくすことはできないであろう。」<同書 p.60-61> → 征服者(コンキスタドール) コルテス

食人を強制する

 (グアテマラではスペイン人の)「無法者はいつも次のような手口を用いた。村や地方へ戦いをしかけに行くとき、彼は、すでにスペイン人たちに降服していたインディオたちをできるだけ大勢連れて行き、彼らを他のインディオたちと戦わせた。彼はだいたい1万人か2万人のインディオを連れて行ったが、彼らには食事を与えなかった。その代わり、彼はそのインディオたちに、彼が捕らえたインディオたちを食べるのを許していた。そういうわけで、彼の陣営の中には人肉を売る店が現われ、そこでは彼の立会いのもとで子供が殺され、焼かれ、また、男が手足を切断されて殺された。人体の中でもっとも美味とされるのが手足であったからである。ほかの地方に住むインディオたちはみなその非道ぶりを耳にして恐れのあまり、どこに身を隠してよいか判らなくなった。<同書 p.81>

イサベラの死とキリスト教徒の残虐行為の法則

 「特に注目しなければならないのは、キリスト教徒たちが1504年のイザベル女王の薨去を知ってから大々的にこれらの島や土地を破壊しはじめたということである。・・・というのは、亡くなられた女王が並々ならない情熱を以てインディオたちの救済と繁栄とに心を配っておられたからである。われわれはその事実を熟知しているし、実際に目にしたし、また、その数々の例を我々自身経験した。同様に、次にあげる法則(レグラ)に注目しなければならない。つまり、インディアスにおいて、キリスト教徒たちが赴いた所ではいつも、罪のないインディオたちは既述したような残虐非道、すなわち、忌まわしい虐殺や圧迫を蒙り、しかも、キリスト教徒たちは数々の新しい、また、よりおそろしい拷問を次々と考え出してますます残虐になっていったという法則である。というのは、神がただちに彼らを見捨て、あえて彼らのなすがままにされたからにほかならない。」<同書 p.38 および p.161>

「黒い伝説」という反論

 この書は1552年に印刷され、さらに各国語に翻訳されてその衝撃的な内容に大きな反響を呼んだ。また、いやおうなく政治的な宣伝に利用されたり、感情的な悪罵を蒙ったりした。まず、1578年にオランダで訳書が出版されると、スペインからの独立戦争を戦い、宗教的自由を求めていたオランダで、格好のスペイン非難がわき起こった。19世紀初め、ラテンアメリカ諸国の独立運動が起きると、ラス=カサスは運動の大義を象徴する英雄にされ、シモン=ボリバルはコロンビアの首都名をラス=カサスにしようとしたほどであった。独立運動を起こしたクリオーリョはラス=カサスが非難した征服者の子孫であったのだが。それに対してスペインではラス=カサスの全作品は発禁とされた。1898年、米西戦争の際、アメリカで英訳が出版され、スペイン非難の材料とされた。敗れたスペインでは“98年の世代”が深刻な自己変革を意識したが、スペインの栄光の再現を志向する保守派は、この書がスペイン人の残虐性をねつ造したもので、その内容は「黒い伝説(レイエンダ・ネグラ)」にすぎないと主張し、ラス=カサスとその書を反スペインとして非難した。現在ではラス=カサスを孤独な英雄で「黒い伝説」の創始者とみなす偏狭な主張は無くなり、正確な史実(細部に誇張があるとしても)を伝え、一つの思想を伝えるものと評価されている。<同書 p.181-187 訳者染田秀藤氏の解説>
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ラス=カサス/染田秀藤訳
『インディアスの破壊についての簡潔な報告』
2013 岩波文庫