アマゾン川
南米大陸ブラジルの熱帯雨林地帯を流れる長大な河川。ほぼ密林であったが、ポルトガル植民地として始まった金鉱の開発やコーヒー農園の設置により森林伐採が進んでいる。
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アマゾン流域の先住民
1500年にヨーロッパ人に知られることになったアマゾン川流域であるが、それ以前の「先コロンブス期」の先住民社会はどのようなものだったのだろうか。彼らの多くは侵入したヨーロッパ人によって絶滅に追いやられ、その文明は破壊され、文字をもたなかったから記録も残っていないため、よく分からなくなっている。16世紀にアマゾンにやってきたヨーロッパ人の記録や、考古学的な研究によって推測せざるを得ないが、およそ次のようにまとめられる。- 先コロンブス期のアマゾンではカシカドと呼ばれる部族集団があり、カシケとよばれる首長に統率・支配されていた。
- 言語、生業、習俗、文化などを異にする部族社会がモザイク状に分布していた。
- 主な言語にはトゥカノ語、アラワク語、カリブ語、トゥピ=グァラニー語、パノ語などがあり、支流や台地に居住していた。
- 彼らの生活様式は河畔の氾濫原の「ヴァルゼア型」と川岸から離れた台地上の「テラフィルメ型」に大別される。
- ヴァルゼア型の部族は、毎年の洪水がもたらす肥沃な土地と豊かな水を利用してキャッサバ、トウモロコシ、サツマイモ、アボガドなどを栽培する農業を基本に、漁業や狩猟を合わせた複合的な営みをしていた。部族は戦闘的で土地をめぐって争い、捕虜を奴隷にしていた。
- テラフィルメ型は鬱蒼とした熱帯雨林の中の痩せた土地で、焼き畑を行い、キャッサバやバナナを栽培し、次に別な場所に移る生活をしていた。農業の比率は低く、食料や生活物資を森林に依存していた。森林の豊富な薬草やパラゴムの木などを利用していた。
- 彼らの「原初的風景」は16世紀に突然始まったヨーロッパ人の侵入と、彼らの残忍な植民政策、そして旧世界から持ち込まれた感染症などによって、急速に変貌を遂げながら次第にその姿を消していった。
スペイン、植民地化に失敗
コロンブスのアメリカ大陸「到達」の翌々年、1494年にスペインとポルトガルは両国の勢力境界線をトルデシリャス条約で、 西経46度37分とし、そこから東はポルトガルに、西はスペインとすることが取り決められた。これによってアマゾン川河口付近から東のアマゾン川流域の大部分はスペイン領となったわけだが、当時はここにこのような大地が広がっていることは知られていなかった。そのご、1500年にポルトガルのカブラルがブラジルに到達し、ヨーロッパでここに広大な大陸があることが知られた。トルデシリャス条約でスペイン領とされていたが、スペイン人が初めてアマゾン川流域に入ったのは、約半世紀後の1542年で、ピサロの部下のフランシスコ=デ=オレリャーナがエクアドルからアマゾン川を下り、河口に到達したときが最初だった。オレリャーナはスペイン隊を率い1545年にアマゾン河口からさかのぼって探検を試みたが感染症や先住民の攻撃で死傷者が続出し、失敗した。スペインはその後も何度かアマゾン探検を試みたがいずれも失敗し、植民地化することができなかった。
Episode アマゾンの由来
アマゾンはギリシア神話に出てくる女勇士のことであるが、大航海時代頃のスペインでは盛んに作られた騎士道物語にも登場していた。1510年に出された“セルガス・デ・エスプランディアン”という騎士道物語では、アマゾンの女王カラフィアは列強の争い
スペインとポルトガルの進出が進まない事を知ったフランスとオランダ、イギリスもアマゾンへの進出を開始した。中でもフランスは積極的で16世紀初めから染料としてブラジルボクを求めて先住民と交易を開始、1555年にはカトリックからの迫害を逃れて新教徒ユグノーなどが植民した。17世紀にはアンリ4世の命を受けたダニエル・デ・ラ・トゥッシュが現在のフランス領ギアナに港を築き、そこからアマゾン地方に進出した。ポルトガルとフランスは1614年にグアセントゥパの戦いで激突、双方が先住民を巻き込んで戦ったが、ポルトガルの勝利に帰した。イギリスもブラジル進出を企て、カーボ・ノルテに砦を築いたが、1623年にポルトガルと戦い、敗退した。オランダも1600年頃、アマゾン河口付近の海岸に砦を築き、西インド会社の支援によって先住民と交易を行っていたが、1623年にポルトガルに敗れた。このように17世紀までに他のヨーロッパ列強の進出はいずれも退けられ、アマゾン流域に対するポルトガルの優位が確定していった。ポルトガルのアマゾン領有
1580年、スペインはポルトガルを併合した。このことはブラジルにおいてはポルトガルに有利に働いた。スペインとポルトガルが連合王国となったことで、トルデシリャス条約の境界線は無意味となったので、ポルトガル人はスペイン人が手をつけられないでいたアマゾン地方に進出するチャンスとなったのだ。さらにスペイン・ポルトガル連合のもとでポルトガルは、1630年頃までにアマゾン進出を狙う他の西欧列強の一掃に成功した。スペインはポルトガルを併合することによって、その広大な海外植民地も共同で統治することとなったが、アマゾン地方に関しては西欧列強の進出に対する防衛をポルトガルにやらせていたことになり、反面、ポルトガルがアマゾンに入植地を広げていくことを黙認した。こうしてトルデシリャス条約の境界線は反故同然になっていった。ポルトガルはアマゾンへの探検、入植、砦の建設などを進め、同様に南部のラプラタ地域のスペイン領にも進出を積極化していった。このような植民地支配をめぐってスペインとの対立が深まるなか、17世紀に入ると本国でも独立の気運が強まり、スペインとの衝突の後、1640年に同君連合を解消し、ポルトガルの独立を回復した。
ポルトガルは17世紀を通じ、アマゾン地方の探検、植民を進め、実効支配地を拡大し、国境の変更を国際社会に認めさえる戦略をとった。おりしも、1701年~13年のスペイン継承戦争でポルトガルはイギリス・オランダ・オーストリア(神聖ローマ帝国)と連合国となって、フランス・スペインと戦い、その戦いに勝利して1713年のユトレヒト条約により、スペインからアマゾン川両岸とラプラタ川左岸を獲得した。またフランスとの間で仏領ギアナとブラジルの国境を画定した。しかし、スペインは特にラプラタ地域を割譲すことに同意せず両国の紛争が続いた。
両国は1750年、「マドリード条約」を締結し、ポルトガルはラプラタ川東岸を割譲する代わりにアマゾン流域の現在のブラジルの国土と同一の領土を獲得した。しかし、スペインはなおも納得せず、両国の間には紛争が続き、ようやく1777年、再度の和平交渉がもたれ、ラプラタ地域でポルトガルはスペインに譲歩し、そのかわりスペインはポルトガルがトルデシリャス条約の境界線を越えて獲得した土地の領有を承認した。これによってポルトガルのブラジル領有は国際的に承認され、トルデシリャス条約は無効となった。
アマゾンでのイエズス会
1617年、フランシスコ会の4人の宣教師がアマゾンでの布教を開始したのに続き、イエズス会、カルメル会などカトリック修道会が次々に進出した。中でも早くも1549年に南米大陸に宣教師を派遣していたイエズス会は、ポルトガル王の援助を受けて最も発展した。ポルトガル政府とイエズス会は公式にはインディオを強制的に働かせることを禁止していたが、実際にはイエズス会は先住民を労働力として農園を経営していたので、ポルトガル人入植者との間でたびたび紛争が生じた。(引用)17世紀のアマゾンでは、「先住民の自由」という建前とは裏腹に、先住民奴隷化の合法的な抜け道が温存されたまま、残忍な植民活動や未知の感染症が原因で、先住民人口は急激に減少した。ペドロ・テイシェイラの兄弟で、マラニョンとグランパラの司教代理だったマノエル・テイシェイラは、ポルトガル人がアマゾン川の河口に到着してから数十年間に、厳しい労働や探検、戦争を通じて、200万の先住民を殺してしまったと推計した。<丸山『前掲書』 p.49>
イエズス会の追放
しかし、ポルトガル人入植者は、イエズス会が布教のためと称して先住民村をつくり、実際には強制労働をさせていることで労働力を奪われているととらえ、両者の対立は次第に大きくなっていった。18世紀にはポルトガル政府もイエズス会の勢力拡大は国王の統治権を脅かすものと意識するようになり、1758年にローマ教皇からイエズス会のポルトガル領における布教や交易を禁じ、さらに翌年、ポルトガルからイエズス会を追放し、その財産をすべて接収するという強硬手段に出た。イエズス会の活動停止はその後フランスやスペインでも採られるようになり、その結果、1773年にはローマ教皇によるイエズス会解散の命令が出された。 ポルトガルは先住民の解放と市民化を進める一方で、その代替労働力としてアフリカから黒人奴隷を輸入し、アマゾンでカカオ、綿花、米、インディゴ(染料)、コーヒー、サトウキビなどの栽培を行うようになった。 <未定稿 2024/1/19>