トルデシリャス条約
1494年、スペインとポルトガル両国間で成立した支配領域分界線。前年の教皇子午線を修正して西に移動させ、後にスペインがアメリカ大陸の大部分、ポルトガルがブラジルを領有する根拠となった。
コロンブスが1492年にインディアスに到達したことを受けて、スペインのイサベルとフェルナンドの両王は、その土地への排他的権利を確保する必要があった。それは、ポルトガルが、コロンブスの航海をポルトガルの支配領域を侵していると主張していたからであった。また、今後発見されるであろう新たな土地についても、両国間の対立が想定されたので、ローマ教皇の調停を求めた。それが1493年の教皇子午線であったが、それはスペイン側に有利な裁定であったため、ポルトガルのジョアン2世は強い不満を抱いた。
トルデシリャスは交渉と調印が行われた都市で、スペインのバリャドリード県にある。先進的な二国家が、他の海外領土を分割するという植民地分界線(海外領土の分割)に関する協定であった。 → トルデシリャス条約による分割線の位置 Hの線
トルデシリャス条約の無効化 18世紀になるとブラジル奥地に金やダイヤモンドが発見されたため、ポルトガル人はさかんにトルデシリャス条約の境界線よりも西方に進出し、内陸のアマゾン川流域に領土を拡大していった。ポルトガルのジョアン5世(在位1706~50)はスペイン継承戦争に参戦して、アマゾン川両岸とラ=プラタ川東岸を獲得、その晩年の1750年にスペインとマドリード条約を締結し、ラ=プラタ川東岸を譲る代わりにトルデシリャス条約の分界線を越えて西側に領土を大きく膨らませ、現在のブラジルの領域をポルトガル領として確定した。これによってトルデシリャス条約は事実上、無効になった。
教皇子午線の修正
ジョアン2世はスペイン出身のローマ教皇の裁定に期待できなかったので、直接、両国が再交渉することを望み、一部武力の行使さえにおわせながら、強硬な態度に出て1494年にトルデシリャスにおいて交渉が開始された。両国は予想外に早期に妥協点を見いだし、教皇子午線とされるヴェルデ岬諸島の西100レグアの線をさらに西方370レグアに移動させることで修正が成立した。このときの分界線は、西経46度37分を分界線とし、そこから東で新たに発見された地はポルトガルに、西の地はスペインに権利が与えられることとなった。トルデシリャスは交渉と調印が行われた都市で、スペインのバリャドリード県にある。先進的な二国家が、他の海外領土を分割するという植民地分界線(海外領土の分割)に関する協定であった。 → トルデシリャス条約による分割線の位置 Hの線
ブラジル、ポルトガル領に
その時点ではまだブラジルは発見されていなかったが、1500年に東廻りでインドを目指してポルトガルが派遣したカブラルが、大西洋上で西に流されて偶然南アメリカ大陸の東岸に到達した。それによって、このブラジルがポルトガル領に含まれることになったというのがポルトガル、およびブラジルの公式見解である。しかし一部には秘密裏にポルトガルは探検隊を派遣し、それ以前にブラジルに到達していたのではないか、とも言われている。アメリゴ=ヴェスプッチも1499年の航海でブラジルに到達したと言っているが、公式な記録は存在していない。<この辺りのポルトガルとスペインの微妙な関係は色摩力夫『アメリゴ・ヴェスプッチ』1993 中公新書/篠原愛人『アメリゴ=ヴェスプッチ』2012 清水書院 などを参照>トルデシリャス条約の無効化 18世紀になるとブラジル奥地に金やダイヤモンドが発見されたため、ポルトガル人はさかんにトルデシリャス条約の境界線よりも西方に進出し、内陸のアマゾン川流域に領土を拡大していった。ポルトガルのジョアン5世(在位1706~50)はスペイン継承戦争に参戦して、アマゾン川両岸とラ=プラタ川東岸を獲得、その晩年の1750年にスペインとマドリード条約を締結し、ラ=プラタ川東岸を譲る代わりにトルデシリャス条約の分界線を越えて西側に領土を大きく膨らませ、現在のブラジルの領域をポルトガル領として確定した。これによってトルデシリャス条約は事実上、無効になった。
その裏側
なお、トルデシリャス条約では東半球、つまりアジア方面については規定はなかったが、16世紀初めにポルトガルは東回りでモルッカ諸島まで到達したため、スペインは西回りでその地を目指し、マゼラン艦隊を派遣、その一部もモルッカに到着したため、ポルトガルとスペインの両国はみたび境界線を取り決める必要がでてきた。その1529年に結果締結されたのが、サラゴサ条約である。 → 植民地Episode フランソワ1世の言いぐさ
1521年、スペインのコンキスタドール、コルテスはテノチティトランを征服してアステカ王国を滅ぼし、獲得した財宝の金細工を溶解して金塊に変えた。12月、その中から国王カルロス1世の取り分として5万8千カステリャーノの金塊を携えた使者がスペインに向かったが、アゾレス諸島沖でフランスの海賊ジャン・フロランに捕まってしまった。フロランはその一部をフランス王フランソワ1世に献上した。はじめて目にするインディアスの富に驚嘆したフランソワ1世は、カルロス1世に次のように伝えたという。(引用)なにゆえに、貴侯とポルトガル王閣下のあいだで世界が分割され(トルデシリャス条約を指す)、フランス王にはなんの関わりもないというのであろうか。われらが父アダムの遺書のなかにかの地の相続者とも領主ともなるものは貴侯らに限るとの定めがあり、それゆえに貴侯らで世界を二分し、余に一片の土地も与えぬというのなら、その遺書とやらを見せてほしい。それができぬなら、余が海上で何を奪い、何を手に入れようと、とやかく言われる筋合いはない。<青木康征『南米ポトシ銀山』2000 中公新書 p.12>フロランはこのあとたびたび海に出て、カナリア諸島沖でスペイン船を襲撃したが、つぎに遭遇したビスカヤの艦隊に撃破されて捕虜となり、身柄はセビリヤに送られて、カルロス1世のもとに護送される途中に裁判にかけられ、絞首刑とされた。