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スペインのポルトガルの併合

1580年、スペインのフェリペ2世がポルトガル王位を継承し、同君連合となり、実質的には併合した。スペインはポルトガル植民地も併せ「太陽の沈まぬ国」となる。1640年にポルトガルは独立を回復するが、衰退が進んだ。

 イベリア半島西南部をしめるポルトガルとその他の大半を占めるスペインの両国は、大航海時代を通じて交易圏の拡大を競ってきた。16世紀の後半に入ると、ポルトガルの衰退が始まり、スペインがその併合を狙うようになり、ポルトガル王セバスティアンがモロッコ遠征に失敗して戦死し、王朝が断絶した1580年に、スペインのフェリペ2世が王位継承権を主張して軍隊を派遣、威圧のもとで併合した。これによってスペインはイベリア半島全域を支配し、しかもポルトガルの海外領土も手に入れたので、その領土は全世界に及び、まさに「太陽の沈まぬ国」となった。

同君連合の形式

 1580年に実現したスペインによるポルトガル併合は、フェリペ2世がポルトガル王位を兼ねるという同君連合の形をとり、ポルトガルという国家が消滅したのではなく、その国家機構は残り、一定の自治も認められていた。ポルトガル側には国王セバスティアンの無謀な戦争(モロッコ遠征)で出費が増え、捕虜の身代金も多額に上り、困窮していた貴族はスペインとの併合を望み、インド交易の後退で衰退していた大商人はスペイン領の新大陸の銀を手にいれることと、イギリス・フランスの海賊船に対するスペイン艦隊の保護を求めて、スペイン王の国王として戴くことを受け容れたのである。
 スペイン王フェリペ2世は、ポルトガル王フィリペ1世として即位するに当たり次の条件を認めた。<金七紀男『ポルトガル史』彩流社 p.123>
  1. ポルトガル王国の伝統的な自由・特権・法律・慣習を尊重し、国会(コルテス)も存続する。
  2. ポルトガル総督ないし副王はポルトガル人とする。
  3. 行政・司法などの官僚機構および軍隊はポルトガル人で運営される。
  4. ポルトガル領植民地における商業はポルトガル人のみに許される。
  5. ポルトガル・スペインの国境税関は廃止される。
  6. ポルトガル語は引き続き公用語として、通貨もそのまま認められる。
 このように、ポルトガル側から見れば、この併合(同君連合)は専ら経済的効果を期待してのものであったことが判る。大きな民族的抵抗もなく進められた併合であったが、ポルトガル人ではない国王を戴くことに次第に違和感を感じる心情が強くなったようで、アルカセル=キビールの戦いで「行方不明」になったセバスティアン国王が生還してスペインの軛(くびき)から解放してくれるという信仰(セバスティアニズモ)が次第に民衆の心を捉えるようになり、反スペイン暴動も起こるようになった。この状態は 1640年にポルトガルが反乱を起こして独立を回復するまで約60年間続く。 → ポルトガルの独立回復

フェリペ2世の野心

 16世紀後半にはいるとポルトガルの富は、西ヨーロッパに流出し、国力は衰退が始まっていた。スペインカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)はフランスとの抗争、宗教改革、オスマン帝国のウィーン包囲などに直面し、財政は困窮していた。次のフェリペ2世(スペイン=ハプスブルク家)もオランダ独立戦争が始まり、国力の回復の必要に迫られていた。そこでフェリペ2世はポルトガル王となったセバスチャンの母がスペイン王家出身であることを足がかりに、ポルトガルの併合を策した。

ポルトガル王の失政

 ポルトガルのアヴィス朝は1557年にジョアン3世が没し、セバスチャンが王位を継承したが幼少であったため前王の王妃カタリーナが摂政となった。王妃はスペイン王カルロス1世の妹であったことから、スペインの影響力が強まった。68年、セバスチャンは親政を開始するが、イエズス会の強い影響のもとで育った王は政治に関心を示さず、時代錯誤的な十字軍派遣の妄想にとりつかれ、北アフリカ征服を夢見ていた。1578年、北アフリカのモロッコでオスマン帝国軍の支援をえた叔父のムレイ・アブデルマルクによって王位を剥奪されたムレイ・ムハマッドがポルトガル王に援助を求めてきた。24歳のポルトガル王セバスティアンは7月14日、6000人の外国人傭兵を含む1万7000の大軍を率いて出陣、8月4日のアルカセル・キビールの戦いで対戦したが、稚拙な戦法が禍して敗れ、戦死してしまった。<金七紀男『ポルトガル史』彩流社 p.116>
※ポルトガルがスペインに併合される要因の一つがモロッコとの戦いに敗れたことであることに注意しておこう。なおこの頃のモロッコはサード朝が勃興した時期である。

フェリペ2世のポルトガル王位継承

 王位は叔父のエンリケが継いだが、これも老人で1年足らずで死亡し、ここにポルトガル王室のアヴィス朝が断絶した。1580年にフェリペ2世は王位継承権を主張してポルトガルに乗り込み、1581年、コルテス(身分制議会)で即位を認めさせ、ポルトガル王フェリペ(ポルトガル語ではフィリペ)1世となった。一部で反対する民衆が蜂起し、王族の一人を擁立して戦ったが、簡単に破られ、それ以外の組織的な抵抗はなかった。フェリペ2世は、ポルトガルに一定の自治権を与える一方、国境関税やポルトガル王室の財政負担が無くなったことは商人層をよろこばせた。こうしてスペインのフェリペ2世はポルトガルの本土と海外領土を合わせ、まさに「太陽の沈まぬ帝国」となった。以後、ポルトガルではフェリペ2世・3世と続き、フェリペ(フィリペ)王朝という場合もある。

オランダ独立戦争との関係

 しかし、この間、オランダは実質的な独立を達成し、またイギリスもエリザベス女王のもとで海外発展をとげ、その大帝国の維持は次第に困難になっていった。旧ポルトガルの海外領土も、ホルムズ、セイロン島、マラッカ、モルッカなどが次々とオランダに奪われていく。 → スペインの衰退
 スペインがポルトガルを併合したとき、スペインと同じようにポルトガルにおいてもユダヤ教徒追放令を出した。ユダヤ人は新教徒が独立運動を展開していたネーデルラントアムステルダムに移住した。かれらはダイヤモンド加工なのの職人であったので、これを機にアムステルダムの商工業が発展することとなった。
 またスペインは独立運動を妨害するために、オランダ船のリスボンへの寄港を禁止したが、そのためかえってアムステルダムのオランダ商人が独自で海外に進出していく契機となった。オランダは1602年には東インド会社、1621年に西インド会社を設立してポルトガル領で盛んに略奪を行い、ポルトガル商人を駆逐していった。

ブラジルへの影響

 スペインとポルトガルが連合王国となったことで、両国の国境は開放され、関税もなくなったので商人は自由に行き来できるようになった。これはポルトガルの商人にとって有利なことであり、同じ海外植民地でスペインと境界を接していたポルトガル人にとっても有利な情勢が出現した。特に南米大陸では1494年トルデシリャス条約西経46度37分を境界としていたが、それは現在のブラジルを真ん中で分割し、その西の広大なアマゾン地方はスペイン領ということになっていたがスペインはその地の探検と入植に失敗し、未開のまま残っていた。それに対して東側のポルトガルは現在のブラジル東南部の入植を進め、アマゾン地方への進出も望んでいた。スペインと同君連合となったことで、ポルトガル人はトルデシリャス条約の境界線の西側にも自由に行けるようになったことは、大きな利益をもたらすことになった。
(引用)ポルトガルは、スペインとの同君連合がもたらしたアマゾン進出の好機を最大限に利用して、現地で植民活動を活発化させる一方、本国では同君連合の軛からの解放を画策していた。そもそもスペインのポルトガル併合は、16世紀後半に衰退し始めたポルトガルが、王朝断絶の危機のなか、もっぱらその経済的効果を期待して合意したものだった。(中略)
 一方、同君連合のもとで優位なスペインは、ポルトガルがアマゾン各地に砦や町を建設していることを知りながら黙認していた。スペインは、アマゾンから他の外国勢力を追放して領土の実効支配を強化する仕事をポルトガルに任せる一方で「トルデシリャス条約」による支配領域の分割規定は堅持する立場をとっていた。しかし、スペインに有利なはずの同君連合体制は、その後のアマゾン支配をめぐって両国の明暗を分ける要因となった。<丸山浩明『アマゾン五〇〇年 植民と開発をめぐる相克』2023 岩波新書 p.36>
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金七紀夫
『ポルトガル史』
1996 彩流社