シャルル8世
フランスのヴァロワ朝の国王。ナポリ王国の王位継承権を主張して1494年、イタリアに遠征した。フランスはナポリを維持することは出来ず、以後、ヴァロア家とハプスブルク家の対立を軸としたイタリア戦争が続くこととなる。この戦争はヨーロッパ各国の軍隊の近代化を促し、主権国家けいせいにむかうことになった。
フランスのヴァロワ朝の国王(在位1483~98)。ルイ11世の子。1491年、ブルターニュ公の娘アンヌと結婚し、ブルターニュをフランス領に編入し王領を拡大した。さらに1494年、ナポリ王国の王位継承権を主張してイタリアに侵入、イタリア戦争の勃発(広義のイタリア戦争)となった。一時ナポリに入城したが、ローマ教皇アレクサンドル6世、神聖ローマ皇帝ハプスブルク家のマクシミリアン1世、スペインのフェルナンド5世、ヴェネティア、フィレンツェなどの反フランス同盟が形成されたので、急きょ撤退した。シャルル8世のイタリア遠征は、ルネサンス全盛期のフィレンツェ、ミラノ、ヴェネツィアの三大都市国家、ローマ教皇、ナポリ王国などに大きな衝撃を与え、16世紀の激動をもたらす前触れとなり、ヨーロッパは主権国家体制の形成にむかっていく。
おそらく新大陸から船乗りなどによってもたらされた梅毒が、港町ナポリにも広がっていたのであろう。それがおそらくは売春婦たちを介してフランス兵に広がった。ナポリ側でも感染があり、両軍で多数の患者が出たため、両陣営はいずれも病気は相手のせいだと考え、フランス側は「ナポリ病」、ナポリ側は「フランス病」と呼んで忌み嫌ったという。
ナポリ遠征の副産物
シャルル8世のフランス軍がナポリを包囲した1494年から翌年にかけて、ヨーロッパの記録の中に初めて梅毒の流行が現れる。梅毒は旧大陸では知られていなかった感染症で、1492年にコロンブスがアメリカ大陸に渡ったときに、そのときの乗組員か、奴隷として連れてきたインディオの中に保菌者がいたものと考えられる。梅毒が新大陸からヨーロッパにもたらされたというのはヴォルテールなども言っており、客観的な証拠は無いものの、この時期以前に梅毒に罹っていたことを示す人骨はヨーロッパとアジアには見られず、新大陸にしかないことからそう考えるのが自然である。おそらく新大陸から船乗りなどによってもたらされた梅毒が、港町ナポリにも広がっていたのであろう。それがおそらくは売春婦たちを介してフランス兵に広がった。ナポリ側でも感染があり、両軍で多数の患者が出たため、両陣営はいずれも病気は相手のせいだと考え、フランス側は「ナポリ病」、ナポリ側は「フランス病」と呼んで忌み嫌ったという。
(引用)多くの兵士を失ったシャルルはイタリア攻略を放棄し、多大な損害を出しつつフランスに帰った。フランス軍に加わっていた傭兵たちは、フランスだけでなく、イギリス、ドイツ、スイス、ポーランド、ハンガリーなどの故国に戻って行き、この恐るべき感染症をヨーロッパ全域に撒き散らした。梅毒はロシアでは「ポーランド病」、ポーランドでは「ドイツ病」、オランダでは「スペイン病」、イギリスとイタリアでは「フランス病」と呼ばれたという。正体不明の不気味な病気を、他国のせいと思いたがったのは、どこの国も同じであったらしい。<佐藤健太郎『世界史を変えた薬』2015 講談社現代新書 p.103>拡散のきっかけを作ったシャルル8世自身も梅毒に感染した。その後もフランスのフランソワ1世、イングランド王ヘンリ8世など著名な国王も梅毒が原因で世を去っている。
イタリア戦争で軍事革命始まる
1494年のシャルル8世のイタリア侵入は、当時は全く自覚はされなかったが、大きな歴史的な変化を認めることができる。それは、この時のフランス軍が、騎兵―歩兵―砲兵という兵種によって構成される「近代的」陸軍の最初であったことである。またこの戦争で、大砲や火砲が武器として普遍化し、戦術を大きく転換させる軍事革命が起こったことである。Episode 「王妃の離婚」
イタリア遠征から帰国後、シャルル8世はまもなく居城のアンボワーズ城で改装工事の現場を見て回っていたとき、鴨居に頭をぶつけて顚倒しそのまま死んでしまった。この事故死でいとこのオルレアン家のルイが王位を継承することとなり、ルイ12世がフランス王となった。ルイ12世にはこんな話がある。アンドレ=モロワの『フランス史』から、その話を引用しよう。(引用)一四九八年、僅か二十八歳で、彼(シャルル八世)はアンボワーズ城の、低い門の破損した石の角に額をぶつけて、数時間の後に死んだ。……従兄のオルレアン家のルイが後を継いだ。詩人、シャルル・ドルレアンの嫡子である新王は三十六歳の若者で、魅力あり、痩せ形で、人に愛され、また愛されるにふさわしい、良き騎士だった。……彼は密かに、先王妃アンヌ・ド・ブルターニュに恋していた。彼女が寡婦となった今、彼はアンヌのためにも、又、ブルターニュのためにも、彼女が自分の妻になってくれることを願った。不運な巡り合わせには、彼は既に、ルイ十一世の娘の『小柄で色黒で猫背の女』ジャヌ・ド・フランスと結婚していた。法王アレッサンドロ六世の子、チェーザレ・ボルジアは、金と土地との莫大な償いを受けて、その結婚を無効にする手続きをとってくれた。結婚はルイ十一世によって強制されたものであったから、取り消しの可能性はあった。かくしてブルターニュ地方はフランスの手中にとどまり、『華車なブルターニュ女』は最初の王同様に第二の王にも熱愛されて、王妃の位にとどまった。<アンドレ=モロワ『フランス史』1947 新潮文庫 上p.172>なお佐藤賢一の小説『王妃の離婚』は、この時の離婚裁判を、ジャンヌの側から描いている。