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ナポリ王国

南イタリアでアンジュー家の支配が続いた王国。1443年からシチリア島との両シチリア王国となる。1494年フランス王シャルル8世が遠征。その後長くスペインなど、外国の支配を受ける。1806~14年はナポレオン帝国の属国となった。1860年、ガリバルディが占領、61年イタリア王国に併合された。

両シチリア王国の分離

 南イタリアの古い都市ナポリは、1266年、シチリア島とともにフランスのアンジュー伯の支配下に入り、両シチリア王国を構成していた。シチリアでは次第に反フランス感情が高まり、1282年にパレルモでシチリアの島民が蜂起してシチリアの晩祷事件が起きると、スペインのアラゴン王国が介入し、1302年にシチリア島はスペインの支配することとなった。そのため、アンジュー家はナポリ王国のみを支配することとなった。その後もナポリ王国はアンジュー家のもとで、イタリアにおけるゲルフ(教皇党)の中心勢力として続き、他のギベリン(皇帝党)の都市と抗争を続けた。

両シチリア王国の復活

 ところが、1435年にアンジュー家の家系が断絶したため、1442年にスペインのアラゴン家が王位を継承し、両シチリア王国が復活した(正確にはこの時から両シチリア王国とする)。その後、イベリア半島でアラゴン王国がカスティリャ王国と合同した1479年からは、両シチリア王国もスペイン王国領となる。
 しかし、この頃東地中海一帯にオスマン帝国の勢力が押し寄せ、翌1480年には南部のオトラントをオスマン帝国軍に1年間占領されることもあった。

イタリア戦争

 1494年にはアラゴン家の王位が絶えたことから、フランスのシャルル8世が王位継承権を主張して自ら遠征してきた。これがイタリア戦争の勃発である。これに対して、ローマ教皇とスペイン王フェルナンド5世などが結束し撤退させた。1504年にはフェルナンド5世はフランス王ルイ12世と戦い、ナポリ王国を併合した。

Episode ナポリ病

 1494年のフランス王シャルル8世のナポリ遠征は、3万の軍隊で行われた。翌95年2月末にフランス軍はナポリを占領したが、フランス兵による略奪は直ちに敵意を醸成した。ローマ教皇、ヴェネツィア共和国、ミラノ公国、神聖ローマ皇帝、そしてシチリアを支配していたスペインのフェルディナンド5世は反フランスの同盟を結成した。さらにシャルル8世が十字軍遠征の道具立てにしようとしてローマから連れてきていた、オスマン帝国を逐われた悲劇の王子ジェムが病に倒れてしまった。やむなくシャルル8世は失意のうちにナポリ王国を放棄し帰国せざるを得なかった。莫大な戦費を費やした遠征は、政治的には何の利益ももたらさなかったが、多数のイタリアの美術品を戦利品として持ち帰った。またナポリにあったギリシア語、ヘブライ語、ラテン語などの書籍を1140冊も持ち帰った。これらが後のフランソワ1世の時代のフランスルネサンスにつながる。そして、このときフランスの兵士が持ち帰ったのが、フランス人が「ナポリ病」と呼んでいる梅毒だったという。どうやら、フランス兵の風紀は相当悪かったらしい。<『フランス史』新版世界各国史12 山川出版社 p.141>

外国支配が続くナポリ王国

 16世紀以降もナポリ王国は外国支配が続いた。つまりナポリ王国と言いながらその国王は外国の国王が兼ねており、本国から総督が派遣されて統治されると言う状態だったわけだ。1504年からのスペインによる支配は、スペイン継承戦争後の1714年にフランス・スペインとオーストリア間で締結されたラシュタット条約によってオーストリア=ハプスブルク家領に変わった。
 1733年にポーランド継承戦争(フランスのルイ15世が義父の前ポーランド王を復帰させようとしたが失敗した)が起こると、35年にスペイン・ブルボン朝カルロス3世がオーストリアからナポリを奪ってスペイン支配に戻し、再び「両シチリア王国」と称した。
 このようにイタリアの地図はイタリア人の意志とは何の関係もなく、スペイン・フランス・オーストリアの三国によって書き替えられていたのであるが、この間、南イタリアの農民は最も長く支配したスペイン貴族によって搾取され、貧富の差の拡大と社会の停滞が続いた。1647年にはナポリの貧民が大きな暴動を起こし、パレルモにも伝播してスペインに対する全面戦争の様相を呈するまでになったが、スペイン軍によって鎮圧され、暴動は悪魔と魔女の仕業として悪魔払いの儀式が行われた。<C・ダガン『イタリアの歴史』2005 ケンブリッジ版世界各国史 p.108-112>

ナポレオン帝国の衛星国家

 1806年、ナポレオン1世は、兄ジョセフをナポリ王として送り込んだ。さらにスペインで反乱が起こったので支配を強化しようとジョセフをスペイン王に移した。空いたナポリ王位には1808年から14年まで妹の夫(つまり義弟)でもあるミュラをつけた。ナポレオンは北イタリア統治権も獲得し、ナポリ王国を含めてナポレオン帝国の衛星国家とした。 → ナポレオンのイタリア支配

Episode ナポリ王、裏切りの末路

 このナポレオンの一族がナポリ王として統治したあいだには、一定の近代化をもたらされた。しかし、ナポレオンがライプツィヒの戦いに敗れてその権勢が揺らいでくると、ナポリ王ミュラは、なんとオーストリア側に寝返って同盟を結び、ナポレオンが国王であるイタリア王国(首都ミラノ)を攻撃した。ナポレオンもパリをプロイセン・ロシア連合軍に占領され、ついに退位してエルバ島に流された。ミュラの変わり身は成功したかに見えたが、ナポレオンがエルバ島を脱出したことを知ってあわててオーストリアとの同盟を破棄し、宣戦を布告した。しかし、ナポリ軍はそのようなミュラには従わず、ミュラの王位を剥奪、ミュラはカラブリアに逃げる途中に捕らえられて銃殺されてしまった。

両シチリア王国の復活

 ナポレオン没落後、ウィーン会議の結果、ウィーン議定書によって1816年にナポリ王国が復活し、スペイン・ブルボン朝のフェルディナント1世が即位、シチリア王位と併せて、「両シチリア王国」と称した。その後もシチリア王国とは別個の国家であるが同一の君主をいただく連合王国として存続した(1860年まで)。
 ウィーン体制の時代、オーストリアに北部を支配されたイタリアでは、民族の統一を求めるナショナリズムの運動とともに、自由主義を掲げて市民的自由を求める動きも始まった。
カルボナリの蜂起 1820年7月にはナポリでもカルボナリ(炭焼党)が蜂起し、自由と憲法制定を要求した。国王フェルディナンド1世は要求を容れて、憲法を制定、無血で革命が成功した。しかし、革命が他のイタリア諸国に広がることを恐れたオーストリアのメッテルニヒは武力介入を決定、その報が入ると国王は憲法は強制されたものであるので破棄すると表明した。翌年、オーストリア軍がナポリを攻撃、革命政府側は抵抗したが敗れ、立憲革命は鎮圧されて終わった。

ガリバルディのナポリ占領

 18世紀後半、イタリア統一の気運が強まるなか、1860年にはガリバルディ軍に占領され、また北からはサルデーニャ王国ヴィットリオ=ーエマヌエーレ2世軍に攻められて降服し、1861年にイタリア王国に併合された。
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