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東インド会社

17世紀初頭にイギリス、オランダで相次いで設立された、インド以東のアジア地域との貿易の特権的に行う貿易会社。遅れてフランスなどでも設立された。17~18世紀に貿易とともに植民地支配の機関としても役割を担ったが、次第に国家による直接支配に切り替えられ、会社は解散した。

 1600年イギリス東インド会社に始まり、1602年オランダ東インド会社が続いた。イギリス・オランダは、ポルトガル・スペインに代わってインドおよび、東南アジア、中国などに進出し、貿易の利益を競ったが、いずれも「会社」という新しい組織で商業圏を拡げていった。それより遅れて、1664年にフランス東インド会社が創始(1604年、アンリ4世の時に設立されたとも言われるが、実態は不明)され、その他、1670年にデンマークのアジア会社、1731年にはスウェーデン東インド会社が設立されている。
 「会社」の形態は国ごとに性格が異なっているが、ほぼ特権的貿易会社ということができ、主権国家形成期の諸国の重商主義政策と結びつき、貿易船を派遣する特許の代わりに国家に特許料を払い、国家が貿易の利益を間接的に独占するための特殊な会社として運営された。各国の東インド会社は、各地に商館を置いて活動の拠点とし、香辛料綿織物絹織物陶磁器などのアジアの特産品をヨーロッパに運び、また各地の産物・商品の中継貿易で利益を上げた。

「東インド」の意味

 「インド」(スペイン語ではインディアス)は、ヨーロッパではもともとインダス川の東にあるすべての土地を意味していた。大航海時代にコロンブスが到達した地域が、インドの西の端、つまり「西インド」であるとの判断が一般化し、喜望峰から東、マゼラン海峡から西のすべての地域が「インド」にふくまれると認識されるようになった。また、「西インド」に対して「東インド」として区別されるようになった。従って「東インド」とは、アラビア半島や東アフリカ、インド亜大陸、東南アジアから中国大陸、さらに日本を含む東アジアの広い範囲を指している。つまり「東インド会社」のインドとは、現在のインドではないことにまず注意しよう。
 そのうちオランダでは「東インド会社」が東南アジアの島嶼部(インドネシア)を支配するようになったので「東インド」は狭い意味でその「オランダ領東インド」を指すようになった。なお、「東インド」に対して、コロンブスの発見した島々を「西インド諸島」といい、西インド諸島やアメリカ新大陸とアフリカなどを含む貿易を扱う会社として「西インド会社」がオランダとフランスで作られる。

会社の意味

 「会社」というのは出資者が資金を出し合って組織された企業と言うことだが、政府から東アジアの貿易独占権を認められた特権会社であり、政府が東インド会社を通して貿易の利益を独占する重商主義政策に基づいて作られたものである。ただし、イギリスの場合は度々組織の変更が行われ、1709年には幾つかの会社が合同してたりしていて、一貫した会社組織があったわけでは無い。オランダ東インド会社はいくつもの会社が連合して生まれ、出資者である株主を募って資本を集める世界最初の株式会社としての意義があった。他の東インド会社も株式会社として資金を調達し、株主(国王、貴族、大商人など)に利益を配分することで運営された。
 また、東インド会社は、現代の一般的な会社と異なり、単に貿易を行うだけでなく、現地のインドや東南アジアでは、実質的に植民地として管理するための公的機関としても機能するようになった。東インド会社がアジア各地の現地経済と支配するようになると本国政府の国家政策とも深く結びついて、単に貿易に従事するだけでなく、徴税などの領土支配を行い、貨幣発行、軍隊の所有なども認められた政府機関としての役割をもつように転化していった。そのために東インド会社は本国に代わってアジア諸国と外交を行い、軍事力を所持し(多くは現地人を戦力とする傭兵に依存したが)、現地の抵抗を排除しながら、徴税などの実務を国家に代わって行っていた。

イギリス東インド会社の性格

 「イギリス東インド会社」(EIC)を理解する上で、次のような誤解には注意しなければならない。<羽田正『東インド会社とアジアの海』2017 講談社学術文庫 p.83->
国王や政府が作った国営会社だ、というのは誤り。  「イギリス東インド会社」という名前から国営会社だと思っている人が多いが、これは誤りで、会社を設立したのはあくまでもロンドンの商人たちであり、国王はそれを承認したにすぎない。1600年のエリザベス1世の特許状の宛先は「東インドとの交易を行うロンドンの商人たちと組合」となっている。当時のイギリス王や政府には自らこのような貿易会社を作る意志はなかった。
アジア諸地域の征服と殖民のために設立された、ということも誤解である。  その後の歴史の展開を知っている現代の人びとがそのように考えるのは無理のない面もあるが、少なくとも当初会社を設立した人たちもこれを認可した国王も、武力による領土の獲得は考えていない。土地の購入は視野に入っていたが、それは取引に有利な場合に考慮されたにすぎない。何よりもアジアの豊かな物産を取引する貿易によって利益を上げることがこの会社の究極の目標だった。

オランダ東インド会社の場合

 オランダはイギリスよりも早く、1595年4月、香辛料などの貿易を目指してインドネシアに向けて船団がアムステルダムを出航、1596年ジャワ島バンテンに到達し、97年8月に帰国して東南アジアへの航路の開拓に成功していた。また、資本を提供する商人や金融業者がロンドンにしかいなかったイギリスとは異なり、オランダでは北海沿岸各地の都市に拠点を置く東方との貿易会社がすでに複数存在し、たがいにしのきを削っていた。しかし季節風という制約があるため安定した利益を得るのが難しく、困難な交渉の末、1602年に各地の会社が合同して「連合東インド会社」(VOC)という組織が生まれた。それが通称「オランダ東インド会社」である。<羽田正『同上書』 p.78,p.85-86>  イギリス東インド会社と同様、オランダ共和国政府から勅許状が与えられたが、それはオランダと東インド間の喜望峰経由の貿易を21年間、独占することを認められ、またオランダ国会の名において、東インドで要塞を建設する権利、総督を任命する権利、兵士を雇用する権利、現地の支配者と条約を結ぶ権利を与えられた。しかし、オランダの場合もイギリスと同じく、あくまでも民間の会社であり、オランダの国営会社ではない。オランダという国とオランダ東インド会社は一体ではないことは強調し無ければならない。<羽田正『同上書』 p.86-88>

会社の解散

 オランダ東インド会社は17世紀には東南アジアのインドネシアではイギリス東インド会社との抗争に勝って優位に立ったが、18世紀になるとインド支配を強めたイギリス東インド会社に押されて衰え、フランス革命の余波もあって1799年に解散した。イギリス東インド会社は、インド植民地支配の機構として18世紀に全盛期を迎えて繁栄したが、1757年のプラッシーの戦いでフランスを破ってから、インドを統治する機関に転化し、徴税権と行政権を行使するようになった。また、産業革命の進行に伴って自由貿易主義が台頭して東インド会社の貿易権独占に対する批判が強まり、19世紀になるとインド貿易の独占権、中国貿易の独占権を次々と喪失し、商業活動は停止した。そして1857年のインド大反乱を機に、翌1858年に解散した。フランス東インド会社はインドの主導権をプラッシーの戦いで失ったために次第に活動が衰え、イギリス・オランダに較べて産業資本の成長も十分でなかったために資本も集まらず、1796年に解散した。

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羽田正
『東インド会社とアジアの海』興亡の世界史15
初刊2007
2017 講談社学術文庫