西インド会社/オランダ西インド会社
オランダが1621年に設けた南北アメリカ新大陸との貿易を行う特権的な株式会社。西インドで砂糖や奴隷の貿易を行った。
オランダ(ネーデルラント連邦共和国)が、インド・東南アジアとの貿易を扱う東インド会社に対して、アメリカ大陸・アフリカとの交易を行う特権会社として、1621年にアムステルダムに設立した。「西インド」とは西インド諸島だけではなく、それを含む南北アメリカ大陸をカバーする地域名であったが、西インド会社には東インド会社の管轄する地域以外のすべてが含まれていた。会社の機構や運営は1602年に設立されたオランダ東インド会社とほとんど同じであった。
ニューアムステルダム建設 西インド会社は西インド諸島のキュラソーを根拠地として、北アメリカ東岸にニューネーデルラント植民地を建設し、1625年にはその中心にニューアムステルダムを設けた。またブラジルの製糖業の中心地を占領したり、アフリカではポルトガルの奴隷貿易拠点としていたギニア海岸のエルミナ砦を奪った。こうしてオランダは17世紀の大西洋黒人奴隷貿易の主役にのし上がり、その利益を独立運動につぎ込むことだできたのだった。
同じころ、東インド会社はインドネシアでイギリス人を追い出し(1623年のアンボイナ事件)、ポルトガル人からマラッカ(1641年)、セイロン(1656年)を奪い、ジャワ島にバタヴィアを築いてオランダ領東インドを確保することとなる。
このようにオランダ西インド会社は次第に活動が狭められ、1674年に会社としては破産した。それでもオランダ人の資本は、西インドのバルバドスでの砂糖プランテーション、西インド諸島での奴隷貿易を19世紀中頃まで続けている。
大西洋奴隷貿易に参入
スペインからの長いオランダ独立戦争は1609年に休戦となり、オランダは事実上の独立を達成していたが、西インド会社が設立された1621年には、戦争が再開された。そこで、オランダ西インド会社の商船の活動は、スペインの新大陸との銀輸送船や、当時スペインに併合されていたポルトガルとブラジルを行き来する船を襲撃する海賊行為を行った。オランダは高い航海技術を有し、大西洋黒人奴隷貿易に参入する力を発揮しはじめた。ニューアムステルダム建設 西インド会社は西インド諸島のキュラソーを根拠地として、北アメリカ東岸にニューネーデルラント植民地を建設し、1625年にはその中心にニューアムステルダムを設けた。またブラジルの製糖業の中心地を占領したり、アフリカではポルトガルの奴隷貿易拠点としていたギニア海岸のエルミナ砦を奪った。こうしてオランダは17世紀の大西洋黒人奴隷貿易の主役にのし上がり、その利益を独立運動につぎ込むことだできたのだった。
同じころ、東インド会社はインドネシアでイギリス人を追い出し(1623年のアンボイナ事件)、ポルトガル人からマラッカ(1641年)、セイロン(1656年)を奪い、ジャワ島にバタヴィアを築いてオランダ領東インドを確保することとなる。
英蘭戦争での敗北
しかし西インド会社は、1640年にポルトガルがスペインから独立したことでブラジル経営に復帰したため、ブラジルから追い出され、さらにもう一つの新興勢力であるイギリスと対立し、1652年からは英蘭戦争を三次にわたって展開、1664年にはニューアムステルダムをイギリスに奪取され、ニューヨークと改称するなど、敗北を喫した。このようにオランダ西インド会社は次第に活動が狭められ、1674年に会社としては破産した。それでもオランダ人の資本は、西インドのバルバドスでの砂糖プランテーション、西インド諸島での奴隷貿易を19世紀中頃まで続けている。
大西洋貿易をめぐる抗争
オランダが東インド会社、次いで西インド会社を設立した時期はオランダ独立戦争の最中であった。オランダの海外進出はこの独立戦争と、英蘭戦争、ポルトガルのスペインへの併合から独立などと密接にかかわっていた。16世紀末から17世紀前半までの大西洋では、イギリス・オランダが厳しく抗争していた。(引用)1580年、スペインの王位とポルトガルの王位が統合されたとき、西アフリカから東インド諸島にかけてのポルトガル帝国全体が、また、(オランダの)格好の目標となったのである。まず最初に、独立を求めてスペイン軍に対してますます絶望的な戦闘を強いられていたユトレヒト同盟諸州にとって、拡大しすぎてろくに防備されていなかったポルトガルの領地は、文字通り黄金の機会を与えた。ポルトガルの交易を略奪することは、スペイン王室からは極めて必要なその富の源を奪ったばかりでなく、オランダ人に対しては戦争遂行の資金をもたらした。・・・なお、フランスも1664年、コルベール財務長官のもとで西インド会社を設立、カナダ方面やルイジアナへの進出をはかった。しかし、フランス西インド会社は東インド会社にくらべて経営は奮わず、北米大陸ではイギリスの支配権が強まっていく。
1602年に彼らは東インド会社を設立したが、それは、インド洋と東インド諸島にある一握りの交易点以外のすべての場所から、次第にポルトガル人を追い出していった。オランダの冒険商人たちにとっては、1609年から1621年までの12年間のスペインとの休戦は、確かに、間違いなく成功する一連の略奪の、ありがたくない中断であったわけである。休戦が終わったとき西インド会社が設立されたが、それはポルトガル人が16世紀中に南大西洋に作りあげた、閉鎖的交易体制を奪取するためであった。この会社は、西アフリカから黄金と象牙を買い、恐ろしい条件下で奴隷をアフリカからブラジルに運び、そこの砂糖プランテーションで働かせ、こうしてできた砂糖をヨーロッパへ輸出した。このことからオランダ人は、彼らの利益の多くを呑み込むことになる、ブラジルでのポルトガル人との長期にわたる無分別な領土戦争に巻き込まれた。しかし、それにもかかわらず、1640年に再びポルトガルがスペイン王室から分かれて講和を求めてきたとき、東西の両インド会社は、それへの反対を請願した。・・・<マイケル・ハワード/奥村房夫・大作訳『ヨーロッパ史における戦争』第3章商人の戦争 中公文庫 p.80-81>