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ヴァレンシュタイン/ワレンシュタイン

17世紀ドイツの三十年戦争で、神聖ローマ皇帝=旧教徒側の総司令官。ベーメンの貴族で、カトリック軍を率いプロテスタント軍を撃破、介入したスウェーデン国王グスタフ=アドルフと戦い戦死させた。しかし、教皇と対立し、謀反を疑われて1634年に暗殺された。中世末期の典型的な傭兵司令官、軍事企業家であった。

ヴァレンシュタイン

ヴァレンシュタイン Wikimedia Commons

 ヴァレンシュタイン Albrecht Wenzel Eusebius Wallenstein 1583-1634 は、ベーメン(ボヘミア)でドイツ人貧乏貴族に生まれた。家はプロテスタントであったが、ドイツ・イタリアを回るうちに軍人として身を立てようとして皇帝ハプスブルク家に仕え、カトリックに改宗した。

三十年戦争で傭兵隊長となる

 1618年三十年戦争が起きるとベーメンの新教徒弾圧に活躍し、皇帝フェルディナント2世の信任を得て、その功績で新教徒側貴族の土地を与えられ、フリートラント公という高い身分となった。財力を蓄えたヴァレンシュタインは、領地を拡大した。1624年、皇帝のために自分の費用で2万の傭兵部隊を編成し、皇帝軍総司令官に任命された。デンマーク王クリスチャン4世がドイツに侵攻すると、それを迎え撃って撃退し、大いに名声を高めた。

グスタフ=アドルフとの死闘

 彼は皇帝のもとにドイツの統一を進めようとしたが、その力が強くなることを恐れた旧教諸侯の同盟(リガ)が反発し、1630年には一時司令官を辞任した。しかし同年、スウェーデン王グスタフ=アドルフがドイツに侵攻すると、皇帝フェルディナント2世はヴァレンシュタインを再び総司令官に任命、1632年リュッツェンの戦いでグスタフ=アドルフ軍と対決した。その戦闘ではグスタフ=アドルフを戦死させたものの、スウェーデン軍に押され、敗北した。

ヴァレンシュタインの暗殺

 ベーメンの居城に帰ったヴァレンシュタインは、着々と勢力を蓄え、新教徒側の軍との戦いに備えていたが、1634年2月に部下にそむかれて暗殺された。その理由は、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世がヴァレンシュタインの軍事力が強大になりすぎることを恐れ、傭兵部隊を削減し、一部を皇帝傘下に入れようとしたことを察知したヴァレンシュタインが、皇帝の統制を離れ、新教徒側のザクセン公やスウェーデンに密使を送り講和しようとしたことがあげられる。ヴァレンシュタインの部将たちは、もし講和となれば傭兵部隊の解散につながるので、それをことを避けようとて謀殺した、とうのが一般的な説明である。18世紀末にゲーテと並んでドイツの文学者として活躍したシラーは、そのような筋立てによって、ヴァレンシュタインの三十年戦争での英雄的戦いと傭兵部隊の実態、皇帝との確執や疑惑にみちた最後などを題材として、1798~99年に戯曲『ヴァレンシュタイン』を書いている。<シラー/濱川祥枝『ヴァレンシュタイン』2003 岩波文庫>

参考 傭兵隊長ヴァレンシュタインの生と死

 1618年に始まった三十年戦争では、冒頭のプラハの役人窓外投げ出し事件やデンマーク王クリスチャン4世、スウェーデン王グスタフ=アドルフ、フランスのリシュリューの介入などとともに傭兵隊長ヴァレンシュタインの活動はエピソード的に添えられるものだが、時間数の不足する授業ではそれらはほとんど割愛されてしまう。授業では、ドイツの宗教内乱が全ヨーロッパの長期戦争に転化したこと、その終結となったウェストファリア条約が神聖ローマ帝国の死亡診断書となり、主権国家体制に移行したということの意義が強調されるだけで終わることが多い。たしかにそこは押さえておかなければならないことだが、せっかっくの希有な個性を持ったヴァレンシュタインを黙って見過ごすのはもったいない感じもする。
 そもそも、「傭兵隊長」とは何だろうか。ローマ時代にはオドアケルがいたが、ヴァレンシュタインは単なる傭兵隊長ではなさそうだ、などと思っている矢先、21世紀の現代の世界史にいきなり「傭兵隊長」が現れた。2023年6月にプーチンに反旗をひるがえした(と見られる)プリゴジンだ。プリゴジンは一体どうなるのか、まだ判然としないが、世界史上の代表的傭兵隊長ヴァレンシュタインの生き死にを振り返って比べてみるのも意味がありそうだ。<2023/7/1記>
傭兵隊長となる ベーメンの貧乏貴族に過ぎなかったヴァレンシュタインが、たくさんの傭兵を持つことができた、その財力はどこからきたのか。彼は若くして、すぐれた軍人・指揮官としての才を示し、1617年、フェルディナントの進めた対ヴェネツィア作戦に参加して実績を上げ、とんとん拍子に出世し、皇帝からは栄誉をたたえられ、領地を与えられた。ベーメンの新教徒が敗北させられたビーラー=ホラの戦いには参加していなかったが、その後に没収された新教徒側の貴族や教会の所有地が旧教徒の貴族や部将に与えられ、ヴァレンシュタインもプラハに土地を獲得した。さらに彼は高級貴族の令嬢と結婚、彼女の持参した領地を加え、広大な領地を持つことになった。まずそこで得られた収入が原資になった。しかし真骨頂はそのあとで、彼自身が「戦争が戦争を育てる」と言ったように、戦場での略奪、征服地からの徴税、捕虜の身代金などが大きな収入となった。これは旧教徒側だけでなく新教徒側に雇われた傭兵でも同じで、彼らは都市を攻撃する際、焼き払うぞと脅してはその代償をとりたてていた。傭兵軍団を一度作ってしまうと、それを維持するためにも戦争を続けなければならい。
傭兵の実態 皇帝フェルディナンド2世は、皇帝と言ってもその軍事力は直接指揮できるものではない。中世では封建領主の一族が騎兵となって一騎打ちをする、という戦闘形態であったが、火器が普及したこの時代には大量の歩兵がいる。それは傭兵に依存するしかなく、特殊ないわば戦争企業家ともいうべき有力者に徴集を依頼する。ドイツでは16世紀の宗教戦争、農民戦争の時代からランツクネヒトといわれる傭兵がいたが、この時代になると国籍は問われず、皇帝側の旧教徒領主の同盟(リガ)が最初に雇ったのはティリというオランダ生まれの傭兵隊長だった。ティリは旧教徒同盟の金庫から部隊の給料を払い、略奪は厳禁していたが、1630年に新教徒の拠点マクデブルクを攻撃したときはもはや兵士の略奪、暴行を止めることはできなくなっていた。そのティリがスウェーデン軍との戦いで戦死した後、旧教側傭兵部隊の主力となったのがヴァレンシュタインの傭兵部隊であり、彼は兵士の略奪行為を黙認した。三十年戦争での傭兵の残虐な行為は『阿呆物語』に詳細に描かれているが、戦場での傭兵自身も命を賭して戦い常に死の恐怖と空腹に耐える弱い存在だった。<H.プレティヒャ/関楠生『中世への旅 農民戦争と傭兵』1982 白水社>
封建諸侯との確執 傭兵部隊の存在が皇帝軍にとって不可欠となるともにヴァレンシュタインも態度も大きくなり、封建諸侯の存在を無視するようになった。封建諸侯=貴族にしてみれば、彼は成り上がり者にすぎず、皇帝の信頼を楯に宮廷でも存在感を増していくと、次第に反発するようになった。そのような心理的な思惑だけではなく、封建領主にしてみれば傭兵部隊が暴れ回ることは領民を不安にし、領主への不満をつよめるようになりかねないからだった。ヴァレンシュタインの行動力と、何よりもあげた戦果は、同時に数多くの敵を生み、1630年、皇帝フェルディナントは、レーベンスブルクの帝国議会の席上、ヴァレンシュタイン解任を約束させられた。ヴァレンシュタインはそこでプラハに帰り、若い頃から傾倒した占星術の研究に専念する。しかし、彼が皇帝にとって不可欠であることがまもなく明らかになり、呼び戻されて複戦。傭兵を養い、1632年のリュッツェンの闘いで、スウェーデン軍を撃破した。グスタフ=アドルフが倒れたのはこの闘いである。<リケット/青山孝徳訳『オーストリアの歴史』1995 成文社 p.33-34>
皇帝との決裂 グスタフ=アドルフが戦死した後もスウェーデン軍は依然としてドイツ内に残り、戦争は依然として続いていたが、ヴァレンシュタインの優位は明らかだった。彼はこの優位な情勢を利用し、ひとまずベーメンに引き上げ、自分の軍隊を休ませて疲労回復に充てた。そのようなヴァレンシュタインの動きは、皇帝フェルディナンド2世を強く警戒させた。皇帝はヴァレンシュタインの狙いは、その力を背景にベーメン一国の国王の地位を得ようとしているのではないか、と疑った。そこで軍団の弱体化を図り、国庫からの給与支給を滞らせ、ヴァレンシュタインの麾下の部隊の一部を皇帝の弟のオランダ遠征軍に編入することを命じた。ヴァレンシュタインも皇帝から切り捨てられることを察知したのか、極秘裏に新教徒側のザクセン公やスウェーデン軍の将軍に密使を送り、講和を申し出ていた。
暗殺される  1634年、彼は一年中、敵と味方をおなじようにとまどわせながら、交渉したり軍隊を動かしたりしていた。ウィーンの宮廷はそれを陰謀をたくらんでいるととらえ、皇帝は密かに彼を帝国追放に処した。それによって訴訟手続きなしに逮捕できるばかりか、殺してもよいこととなった。これを知ったヴァレンシュタインは公然と謀反の準備をしたが、遅かった。1634年2月25日、解任の知らせがベーメンのエーガーのヴァレンシュタインに届いた。皇帝に忠実な数名の士官はヴァレンシュタインとその腹心の司令官を謀殺しようと決心し、その日の晩に司令官のうちの三人を宴会に招いて刺し殺し、ヴァレンシュタインは街の民家にもうけた宿舎で刺し殺された。<H.プレティヒャ/関楠生『中世への旅 農民戦争と傭兵』1982 白水社 p.193>

最大の軍事請負業者

 ボヘミアのアルベルト・フォン・ヴァレンシュタイン伯は、最大の軍事請負業者になったばかりでなく、ヨーロッパで最も富んだ人となり、バルチック海からボヘミアまでの領土を支配し、また皇帝軍のために未曾有の規模で武装と糧食を生産する産業と領地を支配した。……しかし、これらの大きな軍事請負業者について最も興味がある点は、彼らの軍事的有効性を政治権力に変えることには誰も成功しなかったことである。ヴァレンシュタインは、メクレンブルクで手に入れた大きな領土のために、これに最も近づいた。もし彼が生きていたら、彼は新しい正統的な王朝を創建し、その領土はやがて主権国家となったであろう。しかし、戦争があまりに続き、あまりに決着がつかなかったから、国際的舞台のこれらの役者たちは、恒久的な力として自らを確立できなかった。……<M.ハワード『ヨーロッパ史における戦争』中公文庫 p.59-60>

プラハの「ヴァルトシュテイン宮殿」

 プラハのヴルタヴァ川とマラー・ストラナ広場の中間にあるヴァルトシュテイン宮殿という市内最大級の宮殿がある。ヴァルトシュテインはドイツ語のヴァレンシュタイン(ワレンシュタイン)のチェコ語表記であり、この建物と庭園は三十年戦争で活躍した傭兵隊長ヴァルトシュテインが建築した建物である。彼は1629年、イタリアから建築家や造園家をまねき、周囲750mの敷地に、高い塀や不規則な形につながる回廊によって外界から隔絶された庭園を造営した。シャクナゲやツツジが咲き乱れ、片隅には人口の鍾乳洞がある。庭園の西側には美しいトスカーナ式の三つのアーチをもつテラスがある。ここには古代ローマの神々のブロンズ像があったが、三十年戦争の時、スウェーデン軍に持ち去られ、現在あるのはレプリカ。宮殿の「騎士の間」は「プラハの春」国際音楽祭の会場になっている。彼はどうしてこのような広大な敷地を手にいれることができたのだろうか。
(引用)ヴァルトシュテインは、チェコ貴族の多くがプロテスタント側であったのにたいし、ハプスブルク皇帝軍側について勝利に大いに貢献し、広大な土地を手にする。さらに富裕な未亡人との結婚によって大資産家となった。そして個人的な傭兵隊をもち、戦争のさなかプラハ一の宮殿を建て、皇帝の権力に迫るまでになった。そのためか、皇帝に、敵軍と密かに手を結ぼうとした、との疑惑を抱かれて暗殺される。<田中充子『プラハを歩く』2001 岩波新書 p.129>

蛇足 傭兵隊長の末路

 ヴァレンシュタインが暗殺された理由は明確には分からない。半ば伝説化し、さまざまな憶測と潤色が加えられた物語となっている。ここでも断定的な説明は避けなければならないだろうが、そのドラマチックな死の状況はシラーの描いた大筋で間違いがないのではないだろうか。シラーの演劇台本はあくまで文学として扱わなければならないが、政治権力のあり方を巡るドラマととらえ、そこになにがしかの歴史的教訓を読み取ることもできる。ヴァレンシュタインの生き死にに「傭兵」の典型を見ることができるからだ。
 M.ハワードが『ヨーロッパ史における戦争』で述べているように、「傭兵」=軍事請負業者というのは「政治権力」にはなり得ない、ということをヴァレンシュタインの事例は教えてくれている。傭兵隊長が力を持てば持つほど、政治権力者はその力を恐れ、抹殺しなければならなくなるという、避けられない矛盾があるのだ。
 ところで、ロシアのウクライナ侵攻のさなか、2023年6月に起こったロシアの「傭兵」=民間軍事会社ワグネルの社長、プリゴジン氏の反乱も、ヴァレンシュタインとほとんど同じ轍を踏んだ。そもそもワグネルの存在は「影」であるはずなのに、プーチンは「戦争ではない、特別軍事作戦だ」と称してできるだけコストをかけずウクライナを屈服させようとしたのか、正規軍よりもワグネルを重視した。そこにこの大義なき「戦争」のうさんくささがすでに明確なのだが、給与支払が滞り、弾薬補給もケチったため、プリゴジンが怒る、という事態になった。おそらくそれよりもプリゴジンが怒ったのは、国防軍がワグネルを統制下に置こうと画策したことが理由だったのではないか。それは結局、傭兵の否定につながる。ここは必死に抵抗しよう、と思ったに違いない。このあたり、プリゴジンの怒りはヴァレンシュタインの怒りとほとんど一緒だ。
 プリゴジンは今のところ暗殺されたという情報はないが、ヴァレンシュタインと同じ運命が待っているかもしれない。はてさて彼がヴァレンシュタインという過去の傭兵の歴史を意識していたかどうかはわからないが。<2023/7/1記>
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書籍案内

シラー/濱川祥枝訳
『ヴァレンシュタイン』
2001 岩波文庫

H.プレティヒャ
関楠生
『中世への旅
農民戦争と傭兵』
初版1982 白水社
2023復刊 白水Uブックス

マイケル・ハワード
/奥村房夫・大作訳
『ヨーロッパ史における戦争』
2010 中公文庫

リケット/青山孝徳訳
『オーストリアの歴史』
1995 成文社

田中充子
『プラハを歩く』
2001 岩波新書