マクデブルク
ドイツ中央部、ザクセン地方の中心都市。大司教座がおかれたが、新教側拠点都市として三十年戦争で破壊された。1654年、ゲーリケが「マクデブルクの半球」としてしられる真空の実験を行った。
マクデブルク GoogleMap
ドイツ中部のエルベ川中流の河畔にあり、東西ドイツ時代には東ドイツ側だった。東フランクのザクセン朝初代のハインリヒ1世が、マジャール人の侵攻に対する拠点の一つとして建設し、その子のオットー1世もここで生まれた。そのためマクデブルクはドイツの初期の歴史で重要な都市となった。
また、東方のスラヴ人に対するキリスト教の布教の拠点でもあったので、オットー1世の時の968年には大司教がおかれた。11世紀のドイツ人の東方植民の拠点でもあった。マクデブルクはドイツ中世の都市として商業も発達し、ハンザ同盟にも加わった。都市法をもった最も古い都市の一つでもあった。
三十年戦争での被害
マクデブルクが大きな試練を受けたのは宗教改革以降であった。宗教改革以来、ドイツにはルターの新教徒が増え、大司教座のおかれたマクデブルクも世俗化が図られ、プロテスタント都市に変化した。1531年には新教徒のシュマルカルデン同盟に加盟した。ドイツ最後の、そして最大の宗教戦争である三十年戦争の中で、1630年11月から皇帝側のカトリック軍傭兵によって半年にわたる包囲攻撃を受け、プロテスタント市民の多くが虐殺され、町は破壊されて「マクデブルクの惨劇」といわれた。三十年戦争の講和条約であるウェストファリア条約ではブランデンブルク選帝侯国(ブランデンブルク=プロイセン)に編入された。
「マクデブルクの惨劇」 1630年、三十年戦争はスウェーデン王グスタフ=アドルフが新教徒側に立って介入したことで新たな局面を迎えた。3万の兵を率いて上陸したスウェーデン軍に対し、旧教側の神聖ローマ皇帝フェルディナント2世は傭兵隊長ティリに命じて防衛に当たらせた。
(引用)最初に両軍の争奪の的となったのはマクデブルクである。プロテスタントの精神的中心とされ、「われらの主なる神の事務局」という尊称をつけられている都市マクデブルクは、スウェーデンの支援を信頼して、教会財産を返せという皇帝の命令に逆らったのであった。それでティリーが攻め寄せてきて、三万の兵で四月の半ばに攻囲を開始した。・・・四週間後の1631年5月20日、攻囲軍は突撃に移った。そのあとで起こったことは、人間の内なる獣性が解き放たれたときの、卑劣と狂気の見本である。七十二歳のティリーは全力をあげて恐ろしい乱暴を止めようとしたが、略奪欲に燃える傭兵たちは、司令官や思慮ある士官たちの手から完全にすり抜けた。・・・
地獄は恐ろしかった。千五百軒の家と、大部分の公共建造物、それに六つの教会が焼け落ちた。三万の住民のうち生き残ったのはわずかに五千人で、その多くは女だった。彼らは突撃の終わったあとの数日のあいだに陣営は引きずられて行き、それからティリーはようやく、彼らの面倒をみてやることができた。身代金の払える者、払ってもらった者は解放された。だれにも金を払ってもらえない哀れな連中は、男も女も、奉公人として勝者に従わなければならなかった。疫病の発生を防ぐために、ティリーはたくさんの死体をエルベ河に投げ込ませた。・・・<H.プレティヒャ/関楠生『中世への旅 農民戦争と傭兵』1982 白水社 p.188-190>
Episoce 「マクデブルクの半球」
近世のマクデブルクでは、1654年に市長であり科学者であったゲーリケが行った「マクデブルクの半球」といわれた実験が有名なできごとである。ゲーリケはそれまで民間に知られていなかった(ガリレイやトリチェリによって証明されていたが)空気に重さがあることを示すために、銅製の半球を重ねて中の空気を抜いて真空にして、双方からそれぞれ8頭の馬に引かせて引き離させようとした。半球はなかなか剥がせず、ようやく離れた途端にドンという大きな音が響いた(急に空気が球内に流れ込んだための衝撃音)ので見物していた人々が驚いた。こうしてゲーリケは空気に重さがあり、我々は空気の圧力の下で暮らしていることをわかりやすく説明することに成功した。実はゲーリケは、市長として三十年戦争による破壊からマクデブルクを再建しようと取り組んでいた政治家でもあった。化学実験に興味があり、当時ガリレイとその弟子のトリチェリが水銀柱を使って真空を作りだし、空気の圧力を測定する事を始めたことを知り、それを市民にわかりやすく理解してもらうための実験を考えたのだった。またこのパフォーマンスを行ったのは隣町のレーゲンスブルク市庁舎前であったが、今はゲーリケが市長だったところから「マクデブルクの半球」といわれている。<サトクリフ/市場泰男訳『エピソード科学史Ⅱ』>