ディウ沖の海戦
1509年、アラビア海でポルトガル海軍がマムルーク朝海軍を破った戦い。ポルトガルがインド航路支配を確保し、マムルーク朝は衰退した。
15世紀末、インド航路の開拓に進出したポルトガルは、アラビア海の制海権をもつマムルーク朝エジプトの勢力の排除をはかった。1509年、ポルトガル海軍とマムルーク朝及びインド諸侯の連合海軍とがインドのディウ沖で対戦した。このディウ沖海戦において、アルメイダの指揮するポルトガル海軍が、マムルーク朝海軍を破り、アラビア海の制海権を獲得し、インド及び東南アジアへの進出を確実にした。
ポルトガルとエジプト・ヴェネツィアの対立
ポルトガルは、1498年にヴァスコ=ダ=ガマがインドのカリカットに到着してインド航路の開拓に成功したが、インド洋一帯はムスリム商人によって抑えられ、その妨害があって思うような利益を上げることができなかった。そこで、1500年にはカブラルを、1502年にはガマを再び派遣し、いずれも武力でムスリム勢力を排除しようとした。このようなポルトガルの喜望峰ルートによるインド貿易への進出に対して、従来のアラビア海・航海・東地中海を結ぶ東方貿易(レヴァント貿易)でムスリム商人からインド産香辛料などを獲得していたヴェネツィア商人は大きな危機感を抱き、当時カイロを中心に西アジアを抑えていたアラビア海の制海権を握っていたエジプトのマムルーク朝のスルタンに働きかけ、ポルトガルを排除しようとした。それを受けたマムルーク朝スルタンは、ポルトガルにインド航路から撤退せぬかぎり聖地イェルサレムを破壊するとローマ教皇を通じて圧力を加えてきた。アルメイダの活躍
しかしポルトガルのマヌエル1世はそれを無視してフランシスコ=ダ=アルメイダを初代のインド総督(インド副王)に任命(1505年)し、22隻の船に1万5千の兵を派遣してインド航路の確保を図った。アルメイダはまず、アフリカ東岸のソファラ、キルワ、モンバサに砦を築き、さらに1507年にはモザンビークにも要塞を築いて戦いに備えた。開戦
マムルーク朝エジプトはヴェネツィアの支援を受け、インド西部のグジャラート王国、南インドのカリカットの王との連合艦隊を編成した。1508年には両海軍がチョウル沖で衝突したが、このときはエジプト連合海軍が勝ち、アルメイダの息子ロウレンソ=アルメイダが戦死した。アルメイダは増援を受けたがそれでもエジプト海軍に比べ船舶数は劣っていた。しかし、1509年にアラビア海貿易の要衝ディウ島(グジャラート王国の領地で、現在のインドのカチャワル半島の先端、ムンバイの西方)の沖でエジプト海軍連合艦隊を捉えたアルメイダは奇襲をかけ、劣勢を挽回して勝利を得た。戦後の状況
この結果、ポルトガルはアラビア海の制海権を獲得し、インド航路を独占することとなって、1510年にはアルブケルケの指揮する海軍がゴアを占拠し、香辛料貿易を独占した。その一方、敗れたマムルーク朝はまもなく、1517年にオスマン帝国に滅ぼされる。ディウはその後、1535年にポルトガルが占領して砦を築き、ペルシア湾の船舶の航行を監視するポルトガルの拠点となった。現在ものその城壁が残っている。<ペンローズ『大航海時代』荒尾克己訳 筑摩書房 p.74/増田義郎『大航海時代』ビジュアル版世界の歴史 講談社1986 などによる>